帳簿の悪役令嬢は王子を選ばない

帳簿の悪役令嬢は王子を選ばない 第3話「第2章」

書棚の列が、蝋燭の炎に溶けてゆらめく。羊皮紙と革表紙の匂いが充ちた狭い書庫の中で、マリエルはいつものように息を整えた。机には一冊の厚い帳簿が開かれ、ソフィアの細い指が頁の余白を撫でている。ユアンは入り口に立ち、背中を壁につけて静かに息をしていた。三つの横顔が、蝋燭の灯りで回転するように浮かび上がる。

書棚の列が、蝋燭の炎に溶けてゆらめく。羊皮紙と革表紙の匂いが充ちた狭い書庫の中で、マリエルはいつものように息を整えた。机には一冊の厚い帳簿が開かれ、ソフィアの細い指が頁の余白を撫でている。ユアンは入り口に立ち、背中を壁につけて静かに息をしていた。三つの横顔が、蝋燭の灯りで回転するように浮かび上がる。

「ここなら安全だ。声は小さめに──」ソフィアは囁く。彼女の声は紙の摩擦音と同じく乾いているが、瞳は夜に強い。マリエルはその瞳を見据え、帳簿の見開きに自分の指先をそっと置いた。冷たい革、ざらついた紙。指先に伝わる質感が、いつもより現実味を帯びる。

「この箇所を見て」ソフィアがページを押し広げる。インクでぎっしり書かれた条文の隅に、手早い走り書きがある。『変更は当事者の同意を以て』──それが形式上の文言だ。

「だけど、現場ではその『同意』が形式に収斂されてる。印章一つ、査官の判、署名欄に押した指の跡。その場に居合わせた者が流れ作業で押す同意。説明も、議論も、相手の理解もいらない。『当事者の同意』って言葉があるだけで、誰も同意したかどうかは問われない」ソフィアの手が小さく震えた。蝋燭の炎が二人の影を揺らした。

ユアンは硬い表情で帳簿を覗き込むと、ふ、と息を吐いた。「形式が正しければ、王都の機能は保てる。だが──それは救いのない人間の数を増やすということでもある」

マリエルは、掌の中に忍ばせている小さな銀のロケットを撫でた。普段は口に出さないが、この小道具は彼女の能力の象徴でもある。中には五枚の薄い羊皮紙の切れが織り込まれている。それらは彼女が“選べる”回数を示すもの──正確に数えたことはないが、手触りで残りを確認できる。

「私の力は、文書の読み替えを『合意』の上で行える──」マリエルは低く言った。「しかし、合意の条件は『当事者が自らの意思で納得すること』、そしてそれが不可欠なのはあなたたちが言った通り」

「つまり、署名があれば良いってだけじゃ駄目だ、と」ユアンが続ける。声に戸惑いが混じる。彼の顔には――家の名誉と、幼馴染の願いの間で引き裂かれる者特有の陰影が落ちていた。

ソフィアはうなずき、帳簿の別頁をぱらりとめくった。そこには数年前の事件の記録が、淡々とした筆致で並んでいる。名はあるが、誰が何を言ったかの記録はない。いつもの手順で済ませられたというだけだ。

「ここを『当事者の同意が真にある』という読み替えをすると、処罰の枠組みを外せる。だが──」ソフィアの指が頁の文字を追う。「本当にその人たちの合意が得られなければ、読み替えはただの偽装になる。あなたの介入が一方的だと、あなたの側にも何かが起きるはずだ」

マリエルはロケットを指で回した。五枚の羊皮の感触が微かに指先に伝わる。彼女は昨夜、紙を抱いた時と同じ静かな決意を胸にしていた。王子を選ばない。それだけは譲れない。そのために、この帳簿の読み方を変える──だが、それは力の行使の在り方を変えることでもある。

「ユアン、あなたの家の名簿には、私たちが必要な『利害関係者』がいるはずよ。父上の代から続く人々──説得することはできるか?」マリエルは問いかけた。

ユアンの口元が歪む。こめかみの血管が微かに鼓動する。彼はいつものように手をポケットに突っ込み、グローブの革を爪で押し上げた。

「説明をすれば分かる。だが、説明を聞く耳があるかどうかは──家の立場と、王都の期待が絡む」

「説明のための時間をもらう、という同意だってある。形式じゃなくて内容だ。内容で同意を取れれば、読み替えは成立する」ソフィアが言った。彼女の声に、少しだけ希望が混じる。

その時、書庫の扉が荒々しく開いた。冷たい空気が流れ込み、外から入ってきたのは館の伝令だ。伝令は息を切らし、手に短冊を握りしめていた。短冊には王都公式の紋が押され、黒く太い文字で宣告が書かれている。

「ミューズ家の下級女中、カリンが、反逆の疑いで拘束された──書面に基づく処遇決定。公示まで二昼夜。帳簿の記録により、裁定は自動執行される、とのことです」

マリエルの胸の中に、鋭い石が落ちたような感覚が走った。カリンはマリエルが密かに気にかけていた下働きの少女だ。些細な過失で口を閉ざされれば、そこで命運が決められてしまう。形式の中で人間が消えてゆく――それを見過ごすわけにはいかない。

「そんなのは、帳簿の読み替えで止められるはずだ」マリエルは言葉に力を込める。頭の中には複数の手順が流れた。まず利害関係者の同意を集める。だが時間はない。公示まで二昼夜。ユアンですら、家を説き伏せるには時間がかかるだろう。

「同意を取る時間がない」ソフィアが低く言った。「しかし、あなたが既に合意のある者――例えば、この館の正規の当事者から同意を引き出していれば、それで間に合ったかもしれない」

マリエルはその言葉を聞いて、急に心が冷えた。たとえ一人でも“正当な当事者”の同意があれば手続きは進む。だが今、その場に居合わせているのは自分とユアンとソフィアだけだ。カリンのために時間を稼ぐために必要なのは、誰か形式的にでも同意を保証してくれる存在――署名を押してくれる重臣か、帳簿の管理者の印章か。

ユアンが顔を上げる。彼の目には決心の光が差し込んでいたが、その光は恐れと責任を飲み込んでいた。

「マリエル、僕は──家に戻って頼みをする。父に、祖父に。だが、その間に決定が下るかもしれない。時間を稼ぐために、君が──君の『術』を行使してくれないか?」

マリエルはユアンの目を直視した。彼は幼馴染にして、彼女の能力の存在を最初に知った一人だ。彼が頼む理由は純粋だ。だが彼の言葉には含みがある。合意が不完全でも、形式さえ整えば一時的な救済は可能だということを示唆している。

「合意が完全でなければ、効果は揮わないと私は言った」ソフィアが釘を刺す。「ただし──」

その瞬間、マリエルの内側で何かが弾けた。カリンの小さな手のひら、掃除をする際のぎこちない動き、夜食の残りを差し出されてしまった時の驚き。人の命が帳簿の行間に埋められてしまう光景を思ったら、もう待ってはいられなかった。

マリエルはロケットを胸に押し当て、目を閉じた。周囲の蝋燭の灯りが微かに震える。彼女はこれまで――合意のある場でしか読み替えを行わなかった。だが今は違う。誰かの命が眼前で消えようとしている。彼女は躊躇なく、手を伸ばして羊皮紙に触れた。

「──私の権限で、暫定的な読み替えを宣する」声は震えながらも決然としていた。マリエルは自分の声を紙の上に落とすように呟いた。行為は古風な魔術のようではなく、もっと事務的で冷静だった。帳簿の条文に、彼女自身の意志を差し込む。一方的な読み替えだ。

ソフィアが目を見開き、ユアンが喉を鳴らした。書庫の空気がぎゅっと締め付けられ、マリエルの掌に温度の変化が走った。羊皮の切れ端が、ロケットの中でひらりと震えた。

――そして、一枚が消えた。

最初は小さな音だった。紙が乾いた葉のように砕ける音。マリエルは慌ててロケットを開けた。白く切れかけた羊皮の端が、指の間に残り、細かな粉のように崩れていく。五枚あったはずのうち、一枚が確かにそこに