帳簿の悪役令嬢は王子を選ばない 第26話「第24章」
アーカイブの天窓は冬の低い光を薄くばらまき、帳簿の革表紙を銀色に浮かび上がらせていた。長い机の上でそれは、赤い絹糸の綴じと鉄の留め金で厳格に閉じられている。ページの端からは古い墨の匂いと蝋のかすれた匂いが混じり、空気が少し震えているように感じられた。
アーカイブの天窓は冬の低い光を薄くばらまき、帳簿の革表紙を銀色に浮かび上がらせていた。長い机の上でそれは、赤い絹糸の綴じと鉄の留め金で厳格に閉じられている。ページの端からは古い墨の匂いと蝋のかすれた匂いが混じり、空気が少し震えているように感じられた。
「ここが……」ジュノがそっと息を漏らした。彼はかつて宛名を書き続けた書士だったから、紙と糸に敬意を払う。リサは指先で帳簿の縁をなぞり、細かな符号を見つけては眉を寄せる。セレナは部屋の扉のほうを向いたまま、いつでも逃げる準備をしている庶民代表だ。
対面には、王室執事カルヴェン。白髪が後ろで小さくまとめられ、銀の眼鏡の奥に冷たい判断がある。彼は護衛三人を連れ、古式の朱印箱を抱えていた。護衛の甲冑は冷たい鈍色を反射し、床に短い音を落とす。彼らの存在が、些細なものまで制度が関与する空気を押し付けていた。
「マリエル・ヴィルデン」カルヴェンは名を呼び、帳簿を指差した。「この帳簿は王室の公文書。今日、貴族院と王宮の前で公示されるべきものだ。逸脱はできない。しかも——」彼は朱印箱を傾け、蝋の雫を示した。それは王家の紋章を刻んだ大きな印章だ。「御印を以て読み替えれば、それは正当な効力を持つ。だが無断の干渉は違法。貴女の――異能が働いた場合、王の前で弁明を求められるだろう」
マリエルは机の向こうに立ち、指先を帳簿の革表紙に触れた。触感は想像よりも冷たく、繊維の節が小さな山を作っている。心臓はまだ太鼓のように鳴っている。場の空気は彼女の腹の内を覗きにくるように、重く押し寄せる。
「本当に、全員の同意が得られるのか?」リサが訊いた。声は震えていないが、指先が震えている。彼女は翻訳と同時に同意書の草案を手に持っていた。時間はない。護衛の足音が廊下で近づいている。
「多くが脅されているわ」セレナが低く言った。「子どもたちは選ばれる側を恐れている。名のある家が『王の選択』を理由に圧力をかければ、誰も署名しない」
「なら、力づくで読み替えればいい」ジュノが前に出る。「合意が得られなければ、代償を払ってでも変更する。貴女の力はそれができるはずだ。ここで待っている時間はない」
マリエルは一瞬、目を閉じた。冷えた窓から差し込む光は彼女の手首の紐に結ばれた小さな銀糸のブレスレットを照らす。ブレスレットには、細い紙片が幾つも結ばれていて、それぞれが彼女の選択の言葉を小さく刻んでいた。母の言葉。友の約束。自分が選ぼうとした人生の断片。彼女はそれを握りしめたとき、いつも自分が「選び残した」ものを確認した。
「条件を思い出して」マリエルは静かに言った。「この力は全員の合意――それが条件だ。合意がなければ、私の『読み替え』は一時的にしか効力を持たない。そして一方的に誰かの運命を決めるなら、私の選択の一つを失う」
言葉の最後に微かな凍りつきがあった。部屋の空気がさらに寒くなる。ジュノがすぐに口を開きかけたが、カルヴェンが前に出た。
「それがどうしたというのだ。王国と貴族院が定めた秩序を曲げることは、単なる個人的な代償で済むことではない。秩序の軽視は混乱を誘う」
子どもたちを守りたい。王子に選ばれずに済ませたい。マリエルの中で二つの衝動が火花を散らした。合意を得る時間をつくるために交渉する、あるいは代償を負って結果を先取りする。どちらも痛みを伴う。
リサが机に置いていた同意書の草案をめくり、その頁を指で押さえた。「セレナ、我々が今ここで安全圏を提示すれば、少しは署名を集められるかもしれない。どこまでなら庶民は納得できる?」
セレナは眉を寄せ、薄く笑った。「滅多に言わないが、私は交渉で日銭を稼いだ。短い時間なら、私たちで説得はできる。でも貴族の圧力が強まれば、私たちの身も危ない。王室からの圧力というのは、手を出す側の正当化になる」
ジュノはマリエルの顔を覗き込んだ。「マリエル、君はこの力を使うことで何を失うつもりなんだ? 一度失った選択は戻らない。君が『王子を選ばない』という目的があるなら、その目的自体が危うくなるかもしれない」
その言葉で、ブレスレットの紙片がわずかに触れ合う。マリエルは遊び半分に結んだその紙片を一枚、指でつまみ上げた。そこには昔の彼女の筆跡で、小さく「拒絶の自由」とだけ書かれていた。自分が貴族としての役割から逃れるために密かに残した言葉だ。彼女はその言葉を胸に抱きしめるようにして、静かに息を吸った。
廊下で簪が鳴るような短い合図が響き、外部の護衛が「王の代表到着」を告げる。時間はもう一度切迫している。
「合意を得る時間をください」マリエルは言った。声はいつもより冷たく、だが決意に満ちている。「私に条件を与えて。三時間だけ。私たちで署名を集める。その間、御印はここから動かないで」
カルヴェンの瞳が一瞬光った。彼は朱印箱を抱え直す。外からは遠方で馬のいななきが聞こえ、王宮では確実に動きがあることを告げていた。
「三時間で集まると?」彼はため息をつき、床に跪くような仕草で少しだけ腰を落とした。「もし不十分なら、王の判断を仰ぐしかない。御印が押されたら——」
彼の言葉はそこまでで切れた。室内の空気が吸い込まれるように変わった。三時間という猶予。それは希望でもあり、罠でもある。マリエルは肩の力を抜き、仲間たちに一瞥を送った。リサはすでに同意書の文面を簡潔にまとめ、セレナは廊下の方に向かって走り出す準備をしている。ジュノは彼女の側に立ち、拳をきつく握りしめた。
「——合意が得られなかった場合、私は自分の力で読み替える」マリエルは静かに付け加えた。「一方的に決める。その代償が何であれ、子どもたちを守るために払う」
部屋の温度がまた一段と下がった。カルヴェンの顔に一瞬だけ驚きが走る。執事は口を開こうとしたが、外の扉が勢いよく開き、赤髪の少年が息を切らして駆け込んできた。顔は引きつり、額には汗が光っている。彼は王宮使者の制服のようなものをまとっていたが、その胸元にはまだ泥が付いている。誰かが外で揉めたのだ。
「待ってください!」少年は床に膝をつき、カルヴェンに向かって紙を差し出した。「王家の訴えが来ました。――『原訴条』の発動です。御印をもってこの場での審理を申し立てる。……王子の代理が直接出廷を求めています」
部屋が瞬間的に静まり返る。リサの同意書のページが風に煽られてぱたぱたと音を立てる。マリエルの手が、彼女のブレスレットの一つの紙片に触れる。そこに書かれた「拒絶の自由」が、もはやただの言葉ではないことを、彼女は直感した。
「原訴条……」カルヴェンは硬く唇を噛んだ。「それを申し立てれば、貴女の行為は王の直接審理にかけられる。違法であれば——公的な処罰に加え、貴女自身が今回の制度の象徴として役を演じることを命じられるだろう」
その言葉に、マリエルの心臓が一度強く跳ねた。原訴条はつまり、王宮が問題を直接持ってくるということ。そこで負ければ、彼女の立場は壊滅する。彼女の最初の目標――王子を選ばないという選択を守ること――が、芯から揺らぎかねない。
だが、部屋にいる者たちの目は既に彼女を頼っている。子どもたちを守るために立った自分の行為が、