帳簿の悪役令嬢は王子を選ばない

帳簿の悪役令嬢は王子を選ばない 第20話「第18章」

会議場の長机には、まだ木の匂いが残る新しい帳簿が並んでいた。表紙は薄い緑の革で、金の箔押しはされていない。ろうそくの火が揺れて、紙の端にできた小さな凹凸を黒い影で描く。セリーヌはその中の一冊を指先で押さえて、冷たい墨壺の匂いを深く吸い込んだ。指先に伝わる紙のざらつきが、今回の重みを確かめさせる。

会議場の長机には、まだ木の匂いが残る新しい帳簿が並んでいた。表紙は薄い緑の革で、金の箔押しはされていない。ろうそくの火が揺れて、紙の端にできた小さな凹凸を黒い影で描く。セリーヌはその中の一冊を指先で押さえて、冷たい墨壺の匂いを深く吸い込んだ。指先に伝わる紙のざらつきが、今回の重みを確かめさせる。

「これが、選択帳です」マルクが低く言った。彼の声には、いつもの軽口はない。向かいにいる村の長ハンリと、三人の年長者の顔に緊張が走る。席の端にはアンヌが座っている。八歳の小さな肩が震えていた。アンヌの家族は、年に一度行われる村の誓約で、彼女を「献上」することを迫られていた。献上とは言葉では穏やかだが、実質は有力貴族の家に引き取られ、身分に従った役を演じさせられる制度だ。アンヌの将来は、先刻からのお決まりの帳面に文字で刻まれていた。

「私たちは、従来の定めを『話合い』で置き換える。ここに各人が自分の『選択肢』を書き、署名する。強制で上書きされるものではなく、本人の意思が記録される形で」セリーヌはゆっくりと説明した。彼女の手は微かに震えていた。ここ数週間、彼らが準備してきた新フォーマット――それは小さな共同体での試みでしかない――を初めて公の場で提示する日だった。

老いたハンリの目が細くなる。「昔からのやり方を変えると、王府の目が厳しくなる。王子様の縁談が決まるのも、その帳面があるからだろう」

「それはわかっています」ユノがすぐに答えた。ユノはセリーヌの隣に立つ女性で、その手には筆と布が重そうに握られていた。「でも、その帳面が誰かの人生を一方的に奪っているのなら、誰かが変えなくては。ここで強制を止められなければ、アンヌは村を出て行ってしまう。戻れなくなるかもしれない」

ハンリは唇を噛みしめる。年長者の一人、赤い刺繍のあるマントをまとったロザンヌが口を開いた。「誰も、王府に楯突きたくはない。もし王子側が介入したら、村全体が報復を受ける。逆に今、王子に選ばれるという『名誉』を失えば、村の名誉も損なうと言われるだろう」

セリーヌはアンヌの手元に目を落とした。子供の指は蜷局を打っていたが、彼女の視線は何かを探しているようだった。セリーヌは胸にある能力の重さを感じる。古い制度文書の矛盾を見つけ、それを当事者全員の同意で別の読み方に変えることができる。その力は「読み替え」だ。だが、必ず全員の合意が必要になる。合意がなければ使えないはず――彼女はそのルールを守ってきた。

しかし、今この場での合意が揃うとは思えなかった。ハンリの表情が硬い。王府からの圧力を恐れる者が一人でもいれば、合意は成立しない。セリーヌはゆっくりと立ち上がった。ろうそくの火が彼女の影を長く伸ばす。

「アンヌに書いてほしいことは何ですか?」マルクが尋ねる。声は静かだが迫り来るようだ。

アンヌは小さな声で言った。「お母さんと一緒にいたい。学校で勉強したい。誰にも代わってほしくない」

その言葉は、机上の空気を一瞬で変えた。ロザンヌの顔が一瞬崩れ、ハンリは顎を撫でた。

「誰にも代わってほしくない、というのは――」ハンリの視線が家長の顔に向く。家長は固く首を振った。「村の習わしを守らなければ。王府への献上がなくなれば、与えられる穀物が減る。子供が生きていく術がなくなると言うだろう」

ユノは息を吸って、選択帳の表紙に手を置いた。「でも、誰かがいつも代わってくれているだけです。選ぶ自由があれば、変わる。私たちがその場を作る」

「できるとしても、この場で全員の合意を取るのは難しい」ハンリは耳元に来るように囁いたように言った。「選択帳は実験にすぎない。王府が咎めれば、村が潰れる。君たちは責任を負えるのか」

その時、ひとりの男が立ち上がった。裁記院の使者などではない。青い上衣を着た小さな商人、フェリクスだ。彼はぽつりと言った。「選択肢を書くだけで村が潰れるなら、今までの帳面の文字で人が死んでいったことに何と言うのだ。僕はアンヌの父親を見た。あの人は、誰かの決めた『義務』のために笑いを忘れた。僕らはそれを変えられるかもしれない」

議論は白熱した。何度も同じ言葉が行き交い、同じ恐怖が反復される。セリーヌは帳簿を開き、空白のページに指を置いた。そこには「アンヌ・マリオン 選択肢」とだけ淡く印刷されている。下に何も書かれていない。今この瞬間に書き入れることが、どれほどの行為なのか。彼女は知っていた。

合意が得られないと分かっている。誰かが裂け目を作っている限り、この場で形式を変えることは難しい。だがアンヌの顔を見れば、時間は待ってはくれない。冬が来るまでに、彼女は家を出るしかない。その前に、一度でも「自分で選んだ」記録を持たせられれば、戻る選択肢が生まれるかもしれない。

セリーヌは唇を噛んだ。能力の原則が耳の中で鳴る――全員の合意で読み替えること、そしてもし一方的に誰かの運命を決めれば、自分の選択肢を一つ失う――。その「失うもの」は、必ずしも特定のものではない。けれどこれまで、彼女はそれを避けるために全力を尽くしてきた。

「みんな」セリーヌの声は震えていたが、確かに届いた。「合意がない。私が一方的に書き換えれば、代償を払います。それでも、アンヌに自分の意思を刻む方が、私はいいと思う。私は――」

彼女は言葉を切った。マルクが両手を机に叩いた。ユノが厳しく彼女を見た。「やめて、セリーヌ。代償はそれほど軽くない。あなたが失うものは、僕たちにとっても痛手になる」

それでもセリーヌの視線はアンヌへ向かった。小さな子が彼女を見上げていた。その目には、虚空を見つめるような諦めが混じっている。彼女は胸の中で何かがはじけるのを感じた。もう言い訳はできない。合意を得るために時間を費やすことは、アンヌの時間を奪うことと同義だ。

「私がやります。私が一方的に書き換える」セリーヌは言い切った。言葉と同時に、彼女の手が帳簿のページに触れた。紙の繊維が冷たく指先に吸い付く。周囲の声は一瞬で消え、ろうそくの揺らぎだけが聞こえる。彼女の中で、能力の軋みのようなものが歯車を回すのを感じた。

帳面の文字が、ゆっくりと動き始めた。印刷された小さな文字列が、まるで水面の波紋のようにずれていく。セリーヌの呼吸は浅く、彼女の指先が熱くなる。合意のない読み替えは禁忌だ。だが、今彼女が触れた帳面は、アンヌの意志を代弁するように言葉を拾い上げていった。「母と暮らすこと」「学ぶこと」「誰にも代わられないこと」――短い行が、墨で確定されていく。

そのとき、セリーヌの胸の中で鋭い欠落が生じた。指先の温度がスッと抜け、心臓の奥に冷たい空洞ができる。彼女は自分の胸倉を掴み、息を詰めた。何かが消えた感覚――しかしそれはただの喪失ではない。自分の未来の一部が、確実に消え去った。視界の端で、机の上に置いてあったセリーヌ自身の私的な帳簿の一枚のページが、音もなく消えていくのが見えた。そこに描かれていたはずの小さな選択肢の一つが、跡形もなく消え去った。

「やったのか」マルクが吐き捨てたように言う。ユノはすぐに駆け寄るが、セリーヌは手を引き留めた。アンヌのページは、明確に署名欄まで満たされている。幼