毒見の悪役令嬢は後宮の友情を守る 第5話「第4章」
朝露が温室の硝子を細い糸にしているころ、アイラは小さな木箱を膝にのせ、指先で蓋の縁を撫でていた。箱は祖母から受け継いだもので、薄い紙片が幾重にも折りたたまれて納められている。彼女はそれを「選択札」と呼んでいた。札が一枚減るたびに、何かしらの自由が静かに失われていくのを感じている。
朝露が温室の硝子を細い糸にしているころ、アイラは小さな木箱を膝にのせ、指先で蓋の縁を撫でていた。箱は祖母から受け継いだもので、薄い紙片が幾重にも折りたたまれて納められている。彼女はそれを「選択札」と呼んでいた。札が一枚減るたびに、何かしらの自由が静かに失われていくのを感じている。
「まだ三枚だね」隣の座布団で、セレナが朝食の菓子を小さくかじりながら言った。金色の瞳がいたずらっぽく光る。風に揺れる簪(かんざし)の音がかすかに鳴った。
「ええ」アイラは伏せたまつ毛を上げて笑った。表向きは、先日の交渉がうまくいったことを祝っている。数日前、後宮の食膳を巡る古い規約の抜け目を、関係者全員の合意で読み替えて席順を改めたのだ。式典監も数人の年長者も静かに頷き、被害を避けられた少女は涙をこらえながら感謝した。合意のもとでの読み替えは、札を消費しない。だからその朝の庭は、ほんの少しあたたかかった。
だが、箱をのぞけば紙片の縁は三つだけで、彼女はその軽さを胸のなかで確かめる。絹の襟元が肌にひんやり触れ、自由の輪郭がひとつずつ削られていくのを思うと、笑い声が遠くなる。
「今日の点検、ちゃんと行くの?」ミリヤが紅茶を差し出しながら訊ねる。淡い香りが立ち上り、庭の茂みで小鳥が跳ねた。
「ええ。毒見の割り当てがあって」アイラはコップを受け取り、口元に運ぶ。式の菓子の甘さが一瞬舌先を撫で、そして奥に金属のような苦みがあった。危険は微妙なところに紛れ込む——彼女はそれを嗅ぎ分ける訓練を積んでいる。毒見の立場は可哀想な皮肉だ。血筋の台本で悪役の役を押し付けられた身として、味覚を差し出すことを何度も演じなければならなかった。
「あなたがいると、みんな安心するよ」セレナがささやいた。だがその声の端に幾分の不安が混じっているのを、アイラは見逃さなかった。
午の鐘が鳴るころ、式典の大広間には銀燭の光が揺れ、侍女たちの間を低いざわめきが行き交っていた。今日の毒見は、節日用の甘い菓子と香茶の二種。献上の折、給仕が差し出す盤を受け取ったのは、式監長のラウリ伯だった。彼は薄い唇を結び、皿をゆっくりと回す。周囲の貴女(きじょ)たちが息を詰める中、ラウリの指先が小さく震えたのをアイラは見た。その痕跡を見逃さないことが、彼女の仕事だった。
「異物が混入している」ラウリの声は低く、しかし確かだった。白い布が一瞬ぱっと広がり、皿の縁に小さな黒い粉が落ちているのが見えた。音が消える。誰かの掌が握りしめられ、小さなすすり泣いが漏れる。
「誰の仕業だ」式台がざわつく。規則は厳しい。毒の痕跡が見つかれば、まずは調査し、その上で責任を取るべき者が決められる。だが古い文書には、調査が収束する前に手順を踏まえた措置を准じる条項が混在していた。そこをどう読むかで、人の運命が左右される。
ラウリは疑いの目を台所当番の下女に向けた。彼女は青ざめ、首を振った。周囲の視線が一斉に集まる。下女はこの後まだ若く、子供を抱えているという噂もあった。もし罪が確定すれば、遠慮なく流刑か下級の責務への移送が言い渡されるだろう。
アイラはゆっくりと立ち上がった。彼女の腹の底で何かが疼くのを感じる。読み替えれば救える。しかし、そこに一人でも同意しない者がいると、読み替えは彼女によって一方的に押し通されることになり、そうした場合には、彼女自身の「選択札」が一枚燃え落ちる。前に一枚失った時の痛みと喪失感が、手の甲に冷たい影を落とす。
「アイラ殿」ラウリが問いかけた。大広間の空気が再びひいてくる。誰もが彼女を見ている。
彼女は箱を懐から取り出した。小さな木の蓋を外すと、残りの札が彼女の掌にかすかに温かい。三枚。それは、いざというときに人の運命を円滑に書き換えるための可能性でもあり、彼女が自分の人生のどの扉を閉じるかという代価でもある。
「当事者全員が同意するなら、文面をこう読み替えることができます」彼女は声を落として言った。「ですが、今回は——」
ラウリの額に皺が寄った。「双方の同意が得られない場合、それというのは——」
「私が一方的に決めることです」アイラが言いきると、あたりに小さな喧騒が走った。下女の顔に希望が微かに灯る。だがその希望は、彼女の肩に冷たい重さを置く。アイラは箱の札を見つめ、掌の中でそれに触れた。指先からほんの少し、木の温度が伝わり、紙の縁が震えた。
「私が決めます」アイラは息を吸い、言葉を続けた。「この下女の罪は——調査が終わるまで保留とする。台所の管理権を暫定的に委ね、外の奉公への移送を取りやめる。原因究明のために後日、別紙で条項を補記する」
その場にいたほとんどの者が瞬間の勝利を噛みしめるように息を吐いた。下女は俯いて小さな嗚咽を漏らした。ラウリは感情を抑えつつも、欄外に名前を書き記した。
だが、同意を得るという「条件」は満たされていなかった。台所の長老は首を横に振り、式典監は顔を固く引き結んだ。合意のない読み替えは、彼女の「一方的な決定」だと見なされる。アイラは箱の札の一片に触れ、言葉の余韻が消える間に、掌の中で何かがぱりりと崩れる音を聞いた。
紙片が一枚、火花のように閃いて灰になった。熱が掌を駆け抜け、肩まで冷えが昇る。浅い痛みが消えた後、ぽっかりとした空虚が残った。誰にも見えない場所で、何かが締め切られたのだと彼女は感じた。
「どうか……」下女が震える声で呟いた。「ありがとうございます、お嬢様」
「いいの。気を付けて」アイラはそれだけ言い、笑顔を作った。内心では一枚が消えたことが重くのしかかっていた。自由は減っていく。私的な時間、誰かに心を預ける安全、いつかの小さな夢——それらのどれが次に消えるのかはわからない。
午後になって、庭では次の騒ぎが芽を出す。セレナが、祭の場で公然と順位を問いただすつもりだと言い出したのだ。彼女は小柄だが、芯の強い女で、ずっと後宮の不文律に疑問を抱いていた。誰かに救われるのを待つのではなく、自分の声で変えたいと言う。
「止めてくれればいいのに」アイラは低く言った。空気が冷たくなり、影が頬に落ちる。
「止めて、どうするの?」セレナは苛立ちまじりに笑う。「あなたの力で読み替えられるなら、表だって声を上げる必要なんてない。でも、それは私たちの声を奪うことよ。あなたがいつも、私たちの代わりに決めてくれるのは、私を助けることでもある。でも同時に、私の選択を奪っているの」
「この場でやったら危険だ」アイラは手を伸ばし、セレナの腕を掴んだ。「刺客や追放の裁定、そういうものに晒される」
「それでもいい」セレナは力強く握り返し、顔を背けずに言った。「私には選べる機会が一度きりある。あなたにそれを奪われるくらいなら、潰れるのを選ぶ」
その言葉は、アイラの胸を穿つ。彼女はセレナを理解している。仲間たちの笑顔は、彼女の行為で守られている一方で、同時に自律的な意思を狭めていた。セレナの決断は純粋で、手の施しようがないほど個人的だ。
「私が止めれば、あなたは助かる」アイラが囁くと、セレナはふっと顎を上げた。
「私の助かり方があなたの選ぶ助かり方であっては困るの」彼女は静かに言った。「助けられることを感