時計塔の悪役令嬢は破滅予定を白紙にする

時計塔の悪役令嬢は破滅予定を白紙にする 第3話「第2章」

塔の鐘が三度鳴ったとき、セリーヌは自分の掌に冷たい空洞ができたように感じた。石造りの広場にはまだ人だかりが残り、貴族たちの革手袋越しに囁き声が波打つ。錆びた鉄の匂い、機械油と蝋のにおいが混ざり、遠くの楼上では時計の歯車が規則正しく擦れ合う音が、まるで判決の鼓動のように場を支配していた。

塔の鐘が三度鳴ったとき、セリーヌは自分の掌に冷たい空洞ができたように感じた。石造りの広場にはまだ人だかりが残り、貴族たちの革手袋越しに囁き声が波打つ。錆びた鉄の匂い、機械油と蝋のにおいが混ざり、遠くの楼上では時計の歯車が規則正しく擦れ合う音が、まるで判決の鼓動のように場を支配していた。

「暫定的に読み替えられる」と、書士がつぶやき、宣言の羊皮紙を手渡した。羊皮は重く、文字は古い爪で彫られたような筆致で並んでいる。セリーヌはその端に、自分の名を朱で示すために指をつけた。署名の代わりに必要な印を押すことになっていた。すべては合意の上だと、幾人かの当事者が口々に肯いた。だが正式な効力を一時的に確保するには、当該条項を拘束する「仮刻印」を誰かが立ててそこに責任を負う必要があった。

「あなたが――」マリカの声が震えた。近くで待っていた彼女がセリーヌの手を掴む。マリカの瞳はいつもより鋭く、焦りが燃えている。「そんな、あなた一人で決めるなんて。議会が……」

羊皮紙に押された小さな円印が、薄い銀の光を放った。その瞬間、セリーヌの手の甲に、冷たい針で刻まれたような感触が走る。指先から肘へと広がるわけでもなく、身体の中にぽっかりと穴が開くような、何かが一つ減っていく感覚だった。

マリカがその手の甲を見る。そこには小さな星形の痕が、まるで消えかけた刺青のようにうっすらと浮かんでいた。光が当たる角度ですぐ薄れてゆく、微かな痕。それは疼きもすれば冷たくもあり、視覚を通してではなく、セリーヌ自身の可能性のありかたが削られるように感じられた。

「代償を払ってでも、人を助けるのか?」マリカは低く、しかし確信をこめて言った。周囲の視線が二人に注がれ、空気が凝った。

セリーヌは言葉を探した。頭の中には、今の合意がどう組み立てられたのか、何が取り替えられ、何が残ったのかが回転する。読み替えは「当事者全員の同意」によって成立する。だが仮刻印は、効力が議会に審査されるまで、一定の拘束を与えるための一時的な措置だった。書士や執務官が立ち去る前に、それを「確立」しておく必要があり、誰かがその責を名乗らなければならなかった。時間はなかった。訴訟を待つほどの余裕は、婚姻の執行現場にはなかった。

「私は――」セリーヌは言いかけて、言葉を呑んだ。自分の名を印に押すために動いた掌の裏に、震えが走る。合意は取れている。だが仮刻印は、その合意を影響力のある形で封じる。誰かの選択を一時的にでも固定するということは、その誰かの未来の扉を一つだけ閉じることに等しい。読み替えの力の、それ自体の性質だ。彼女は知っていた。力には禁止と代償がある。だがそのときはそれが目に見える形で現れるとは思っていなかった。

アルトが一歩前に出た。新しく味方になったばかりの彼は、まだ黒い外套の縁に露が残るように見える。背は高く、手の平は器用に物を扱う。拳に力が入っているのが見えた。

「セリーヌ、君の言葉を止めるつもりはない」アルトの声は周囲の物言いよりも柔らかく、しかし決然としていた。「だが、――それを私たちだけで抱え込むべきではない。塔の管理局にも、各領主にも、関係する当事者すべてに説明しなければ、反発は強まる。今は暫定だが、それですら誰かの人生を変える。君が一人で仮刻印を立てたことで、責任が君だけに残るのは危険だ」

「危険とは?」マリカが返す。腕に力を込めて、セリーヌの手をぎゅっと引き寄せる。針のような痛みが走った。セリーヌは視界の端で、塔の柱に彫られた古い紋章を見た。時計塔――視覚的な象徴は今、集まった者たちの意見を秤にかける場所になっている。歯車を回すことで時間を刻むように、制度は人の生きざまを定刻に合わせる。

「あなたは、これ以上選択肢を失ってほしくないのよ」マリカはそう言って、声を震わせた。「あなたがずっと抱えてきたものがあることは、私も知っているけれど……」

セリーヌは自分の掌の星を見る。そこに何かが宿っているわけではない。だが確かに、何かが薄れていく。幼いとき、母が言った言葉の幾つか、将来の選択肢の一つ。あるいは――まだ名前を与えていない夢の片隅。すべてが、星の消失とともに少し暗くなる。

「私の能力は、合意でしか成り立たない」とセリーヌは静かに言う。「でも、合意を場に留めるための措置は――誰かが取らなければならなかった。今回は、それが私だった」

その説明を聞くと、近くの執行官が口を挟んだ。白髪の男性で、長い杖の先に小さな錘を付けている。声は図書の頁を繰るように乾いている。

「暫定的措置は、理にかなっている。しかし、塔の規定では仮刻印は最長三日で撤回されるか、議会の承認を受ける必要がある。議会がそれを覆すと、合意は無効になる。だがその間、効力は存在する。故に、影響を受ける者の選択肢は一時的に制限される」

「その"一時的"が問題なのよ」マリカは執行官に向けて言い返した。「人の未来は一時的に縛られた途端、変わる。婚姻式が取消されれば、当事者たちの生活は変わる。子どもたちは避けられない。うまくいけば良いけれど、崩れれば取り返しがつかない」

周囲から小さな同意が漏れた。貴族の服の裾が擦れる音、子供の声が遠くで消え、時計の針が一つ進む。アルトがセリーヌを見た。表情は真剣で、決意がその顔に影を落とす。

「ならば、私が動く」とアルトは言った。「力仕事ではない。交渉だ。君のしたことを守るために、私は当事者たちを回り、合意を固める。それが制度に対する一つの答えになる。もし議会が取り消しにかかるなら、私たちで証人となる人々を連れて来る。塔は歯車だけじゃ回らない。人の声で動くものだと――僕は、やっとわかった」

その言葉には素直な熱があった。力任せの解決を望んでいた自分と違い、アルトは交渉を武器にしようとしている。セリーヌは、それが嬉しかった。だが同時に、彼の言葉の裏にある重さを知っていた。合意を集めるには時間と信頼が必要で、それこそがこの制度を揺らす鍵となる。

「あなたは、どこへ行くつもり?」マリカが問いかける。

「まずは裁判区の小領主たち。次に婚姻当事者の親族、そして塔の執行委員会。この暫定措置を覆させないために、署名と証言を積み重ねる」とアルトは答えた。「力仕事は、いくらでも僕ができる。だが今日は交渉の筋道を作る。君のやったことに責任を持つために動く。君はここに残って、文書の整理を――セリーヌ、君の手はまだ震えてる。無理をしないでくれ」

セリーヌは一瞬、彼の言葉に甘えたい気持ちになった。だが自分がここで手を放せるのか、という疑問が湧く。仮刻印の責任は自分にある。撤回に結びつく証拠や疑義が出れば、彼女の行為は悪意または軽率と見なされるかもしれない。そうなれば、誰かの運命を変えた代償が、さらなる重荷となって返る。

「お願い、行って」セリーヌは小さく言った。「私はここで文書の整理をする。仮刻印があれば、議会に説明をつけねばならない。書類の穴を埋めるのは、私の仕事だ」

アルトは頷いて、マリカに視線を向けた。「僕は数時間で戻る。もし戻らなかったら――それは、よほど長引いたということだ」

二人の間に沈黙が流れた。石畳に落ちる影は長く、塔の側面