時計塔の悪役令嬢は破滅予定を白紙にする 第20話「第18章」
列車の車輪が線路を叩く音が、夜明けの薄い霧を引き裂いた。鉄の振動が手すりから掌へ、掌から肘へと伝い、セレナ・ヴァローネは窓外の景色をぼんやりと眺めた。灰色の畑、点々と並ぶ藁屋根、そしてやがて立ち上る小さな町の煙。遠くに見えるのは、いつもと同じく時計塔だった。針はまだ深夜のまま、だが塔自体が黒い影の中で鋭く輪郭を持って浮かんでいる。その姿を見ると、胸の奥で冷たいものが広がった。あの塔の音色が、今度は誰のために鳴るのか。
列車の車輪が線路を叩く音が、夜明けの薄い霧を引き裂いた。鉄の振動が手すりから掌へ、掌から肘へと伝い、セレナ・ヴァローネは窓外の景色をぼんやりと眺めた。灰色の畑、点々と並ぶ藁屋根、そしてやがて立ち上る小さな町の煙。遠くに見えるのは、いつもと同じく時計塔だった。針はまだ深夜のまま、だが塔自体が黒い影の中で鋭く輪郭を持って浮かんでいる。その姿を見ると、胸の奥で冷たいものが広がった。あの塔の音色が、今度は誰のために鳴るのか。
「あと二時間でメルク着だよ、セレナ。」ガイウスが背中越しに言った。彼は馬車の修理を任されていた頃とは違う、軍服の襟を正した男になっている。肩にかかる肩章が、彼がここへ来た理由を語っていた。
セレナは手に持っていた薄い羊皮紙を指でなぞった。先に届いた三通の手紙のうち、いちばん重たいのはやはりガイウスからのもの。だがもう一通、まだ封が切られていない白い便箋が鞄の奥で微かにざらついている。それは、彼女がどこかで「選べる」最後の余白だと思っていた。――もし必要なら、貴族としての身分を放棄する意思表明をすれば、街道の外での活動はしやすくなる。だがその紙をどう使うかは、まだ具体的になっていなかった。
列車が減速し、踏切の鈴が三度鳴る。メルクの片隅、石畳の駅に降りると、冷気が一枚の布のように襟元を撫でた。落ち着いた色の布をまとった町の人々が出迎えに来ていた。顔に疲労とは別の緊張が張り付いていた。先導して出てきたのは、町役人のカミル・レンダだった。白髪まじりだが背筋は伸び、腰のあたりに古い判子入れをぶら下げていた。
「セレナ様、遠路ご苦労でございます。お待ちしておりました。――あちらです。」カミルの声は抑えられていて、しかし震えはなかった。彼の視線は、町の真ん中にそびえる小さな広場へ向けられていた。そこには、町の古い人々が集まっていた。婦人たち、商人の若い者、鍛冶屋の息子。皆、時計塔の方向を時折り見る。
広場の中央、粗末だが歴史を帯びた石の台座に腰かけているのは、宿場の有力者らしい老紳士、ロヴァート・フレイクス。彼の腕には皮の手袋。エルドランの新令の噂を初めて聞いたとき、ロヴァートは黙って眉をひそめていた。今は口を開いた。
「この町の古い法典には、村民と領主と役人の『三者同意』と書かれている。だがこれを解釈する者が増えれば、ただの言葉遊びに成り下がる。エルドランの出す書類は、有力者の影響を制度的に強化しようとしている。いったい誰が得をする?」彼の指先が石の縁に食い込み、節が白く浮かんだ。
「貴族たちがだ、ロヴァート。」鍛冶屋のマルセという男が出てきた。声には怒りと恐怖が混じる。「もしあの令で得票が拾いやすくなるのなら、我々の声なんて塵になる。あの日、三人を連れ去った役人のやり口を見ろよ。今回も同じようにやられるだけさ。」
「あの日」――それは数日前の夜、何の前触れもなく役人が数人の若者を連行した事件だった。理由は「秩序の乱れを懸念する」だった。だが裁判所は開かれず、釈放はされなかった。噂はすぐ各町に広がり、エルドランの新令が追い打ちをかけるのではないかという不安が渦巻いた。
町の詰め所で待つと耳が痛くなるような足音が近づいた。鉄靴の音とともにやってきたのは、エルドランの正式な使者、オリヴァン・ドール。彼は黒い外套を翻し、胸元には王色の紋章――王府の意向を示す小さな金のプレートをつけていた。彼の目は冷え、口角には常に含んだ笑いがあった。
「セレナ・ヴァローネ殿。貴方がこの町に関心を持ってくれたのは結構だが、かくかくしかじかの理由で私は新令を執行しに来ている。首長会議が承認すれば、地方の意思纏めは有力者の影響力に従うことになる。無駄な抵抗は諦めた方がいい。」オリヴァンの言葉は、広場の空気をさらに冷たくした。
セレナは前へ出た。彼女の胸の前で手が軽く震えたが、声は平静を装って出ていった。「オリヴァン殿、ここは誰のものでもありません。法典には三者同意とあります。つまり、ここにいるすべての当事者の合意が必要です。私たちは再確認する権利があります。」
「再確認?」オリヴァンは鼻で笑った。「法の文面は我らの手にもある。『有力者による合意』という表現は、古い土地紛争や共同体を統一するための救済措置だ。これを放置すれば、貴方の町など無数の小さな紛争が逆に統治を混乱させる。新令の目標は、秩序の確立だ。」
だが秩序が誰のためのものかは、聞けばすぐに分かる。オリヴァンが言う「有力者」とは、ロヴァートのような地方の顔役ではなく、エルドランの味方となる大貴族たちを指していた。王府の盤面を押し固めることで、エルドランは首都での同意を一手に取り戻そうとしている。
セレナは広場に座る人々の顔を見た。老人の皺、若い母の眼差し、鍛冶屋の荒い手。彼らが合意の主体であり続けるためには、単に説得するだけでなく、形式上の「合意」を取り戻す必要がある。だが古文書を読み替えるには当事者全員の承諾がいる。数が揃わなければ、彼女の力は単なる言葉に終わる。
「まず、全員で条文を読む。ここに刻まれている言葉の意味を、皆で確認するのだ。」カミルが静かに提案した。彼の顔に決意が漲る。役人としての誇りがそこにあった。
だがそれでも、釈放されずにいる三人の若者──マルセの甥分、アンナの兄、鍛冶の徒弟──に対する強引な措置を止めるには至らなかった。オリヴァンは既に連行の理由を立て、夜明けに再度引き渡す準備をしていると告げた。時間がなかった。
セレナは溜息を付いた。ここで彼ら全員に判文を読み替える合意を取り付けられたなら、拘束は違法になる。だが一人でも欠ければ、反故にされる。目の前の老人ロヴァートは頑固だった。彼は自分の名誉と役目を守るために、昔の慣習に固執していた。
「ロヴァートさん、どうか。」セレナは膝をつき、老人の目を見る。「ここで合意を作りましょう。お話を聞けば、あなたの担いでいる責務も守れます。若者たちを戻して、町の声を形式にしましょう。」
ロヴァートの瞳が揺れた。長い沈黙が落ちる。やがて彼は小さくうなずきかけた――が、そのとき、オリヴァンが表情を変え、指示を与えたのが見えた。数名の役人が動き、無造作に広場の数人を押さえた。彼らの手には針金が入り、顔が青ざめる者もいた。
「それ以上は許されない。」オリヴァンの声に、広場は凍った。
役人は三人の若者に手錠をかけると、強引にその場の秩序を作り始めた。オリヴァンは宣言した。「この町の意志表示は有効だが、緊急を要すると判断する。裁定は首府の前でなされる。臨時措置として、数名を保全のために拘束する。」理由はそれらしく、だが聞き覚えのある手口だ。手続きの外側で「秩序」が適用される。
セレナの胸が締め付けられる。目の前の情景は、これまで彼女が阻止しようとしてきたものそのものだった。法が形式だけを守り、実行は権力に任される。彼女は立ち上がった。
「待ってください、オリヴァン殿。」声は震えていたが、抑えられていた理性が叫んだ。「古い条文には、こうあります――」
彼女は手許の羊皮紙を取り出した。そこにはこの町の成立に関する古い条文が写しで残されていた。条文の末尾、細かな書