時計塔の悪役令嬢は破滅予定を白紙にする

時計塔の悪役令嬢は破滅予定を白紙にする 第10話「第9章」

午前十時、時計塔の大針は一直線に北を指し示していた。金属音を含んだ風が広場を渡り、石畳の小さな亀裂に舞い込む埃を震わせる。塔の鐘楼からは低く重い振動が伝わり、やがて街全体がそれに呼吸を合わせるように静まった。セリーヌはその振動を胸の奥で受け止めながら、広場に設置された臨時の壇の前に立っていた。壇には、執政官エルドランが公表した新手続きの巻物が広げられている。羽根のように薄い羊皮紙には、緻密な朱印と、塔の紋章が燦然と押されていた。

午前十時、時計塔の大針は一直線に北を指し示していた。金属音を含んだ風が広場を渡り、石畳の小さな亀裂に舞い込む埃を震わせる。塔の鐘楼からは低く重い振動が伝わり、やがて街全体がそれに呼吸を合わせるように静まった。セリーヌはその振動を胸の奥で受け止めながら、広場に設置された臨時の壇の前に立っていた。壇には、執政官エルドランが公表した新手続きの巻物が広げられている。羽根のように薄い羊皮紙には、緻密な朱印と、塔の紋章が燦然と押されていた。

「異議申し立ては――」エルドランの声は弓のように張って、群衆の間を切り裂いた。「本日より、いかなる解釈も塔の検印を以てのみ有効とする。個別の私的読み替えは、秩序を乱す。秩序は国の骨である!」

ざわりと声が起こる。セリーヌの仲間たちが一斉に視線を寄せる。ローラは顎を引き、指先で軽く拳を握った。ミカエルは巻物の朱印を見つめ、顔色を変えないように努めている。サディア――昨日助け出した民衆の代表――は袖を噛んで震えていた。彼女の目がセリーヌと合うと、小さく頷いた。言葉にならない了承。これが、同意の形だとセリーヌは思い直す。

壇の側に立つ衛兵が、監視の眼を細める。彼らの鎧は太陽を受けて白く光り、唇の端に黒い煤が付着していた。塔に掲げられた大きな歯車の影が、ひとの顔を長く伸ばしたり縮めたりする。塔は今日、裁定の心臓として、より強く鼓動している。

「あなた方は何を望むのですか?」エルドランがこちらを指差す。彼の声には、調停者らしい涼しさと、支配者らしい断定が混じっている。「秩序の名の下に、混乱を一掃する。セリーヌ・ヴォール、あなたは一年前の違反をどう弁明する?」

セリーヌは言葉を整えた。風に乗る埃が彼女の頬に触れる。彼女は自分の能力を、紙袋に入った古文書の匂いのように感じていた。いつでも取り出せるが、扱い方を誤れば手が汚れる。彼女は深く息を吸うと、壇に近づき、自らの手を羊皮紙の上に置いた。指先に伝わる微かな冷たさは、塔の鐘が伝える振動とは違うリズムで波打っていた。

「私は、『同意に基づく条解』を申し出ます」声は静かだが、群衆には届く。「この場にいる当事者全員が承認するならば、この巻物の条義を読み替え、ここに記された運命を白紙に戻します。」

エルドランの顔がゆがむ。壇の周囲にいた上級官吏らが一瞬で身を固くする。塔の鐘が、ひとつ高く鳴った。

「当事者の同意――?」エルドランの笑いが、毒を含んで広場を流れる。「皮相な茶番だ。君はあのとき、民を惑わした。君のやり方は、常に主観の前提に基づく。いかなる『同意』があるというのだ?」

サディアが震える声を上げる。「私たちは――! 私たちは自分のことを決めたいだけです。…彼女がやるなら、私たちは議論して、それに同意するつもりです!」

その言葉は涼やかな刃となり、群衆の空気を切る。群衆の中から他にも声が上がる。老女、商人の娘、兵の妻。次々と自発的な手が上がり、同意の輪が自然と壇の周りに広がっていく。その光景を見て、エルドランは一瞬ひるんだ。だが、それは一瞬のことだった。

「同意は形骸化し易い」エルドランは重々しく言う。「同意が暴走したとき、秩序は壊れる。よって塔の検印が必要である。今日から検印は強制される。」

彼は袖をかき上げると、侍従に何かを囁いた。侍従はうなずき、大理石の柱の隙間から一台の小型機械──塔の認印装置を持ち出した。歯車と針が露出し、そこには塔と同じ紋章。ミカエルが舌打ちする。

「検印があれば、どのような同意も無効にできる」ローラが低く言った。だがサディアの目は光っている。自由が生きている。

セリーヌは自分の選択を確かめるために、いつもの仕草で胸の内側に触れた。そこには、彼女が能力を呼び出すときにいつも頼る小さな銀の佩飾があった。細い鎖にぶら下がる歯車の形をした小片。だが今、冷たさは後を断たれ、どこか重く、確かに欠けている予感があった。欠けを恐れている自分を、彼女は直視した。

「私たちはやるべきだ」セリーヌは壇に向き直る。「ただし、今回は違う。君たちの意志を聞き、君たちの同意で読み替えをする。私は仲介に立つ。誰かの運命を勝手に決めはしない。」

同意の輪が広がるにつれて、空気は温かくなった。だがそれは、同時にエルドランの表情を硬直させた。彼は無言で腕を振り上げ、執政府の旗手が隊列を整える。広場の外縁に控えていた衛兵が一斉に前に出て、群衆の前を塞ぐ。

「良いだろう」エルドランは静かに言った。「だが、この場での『読み替え』は塔の記録と照合される。塔に蓄えられた原本と違うなら、君たちの合意は無効化される。塔は国の記録だ。公の記録を動かすには正当な根拠が必要だ。」

その言葉に、セリーヌは内心で凍りついた。塔の原本──その存在は噂に過ぎないと彼女は思っていたが、もし塔自体が原則を封じ込める倉であるなら、彼女の「読み替え」は表層に過ぎない。自分の力が触れ得るのは紙の上の文字だけで、塔が保持する物理的な「原本」までは及ばない。だがそのとき、サディアの声が割り込んだ。

「だったら塔に行けばいいんだ!」彼女は袖を叩き、声を高めた。「あの塔の中に鍵があるなら、そこまで行って、私たちの意思を刻む。私たちの同意で直接――!」

その言葉に、群衆がざわついた。塔が、ただの象徴ではなく、力の実体として姿を現した瞬間だった。エルドランは危険を嗅ぎ取り、じっと塔のほうを見上げる。塔の窓のひとつが、まるで応えるように開いた。そこに薄い影が立ち、長いローブの者が一瞬顔を覗かせた。時計塔の守り手、カラだ。

「塔には守りがある」ミカエルが静かに言った。「塔の内部は検印と符で満ちている。外面的な読み替えは限定される。だが――もし塔の原盤に直接触れるなら、違う。」

その可能性を告げられた瞬間、セリーヌの胸の佩飾が唐突に冷たくなった。指先で触ると、古い歯車の欠片がひとつ、確かに欠けている。欠けた場所からは暗い溝が走り、そこに微かに刻まれた文字が見えた。彼女はそれを読む。

「一方的決定の代価──選択権の一喪失」

文字を読み切る前に、広場の鐘が三度低く鳴った。鈍い金属音が、セリーヌの体の中で何かを弾いた。思考の一つが、ふっと消えた。彼女は直感的にそれが何かの可能性だと感じた。昨日までなら思いついた戦術のひとつが、ふいに思い浮かばない。紙の山を扱うならば常に別解を予備に持っていたはずなのに、その一つの分岐が、静かに閉ざされたように思えた。

「…失った?」ローラが息を吐く。「どういう代償だ、それは。」

セリーヌは首を振る。説明は容易に出なかった。能力の代償はいつも、使った直後に実感する。だが今日は違った。代償の現れ方が、城の外にいる人々の選択と結びついている。彼女がもし無断で誰かの運命を強制すれば、そのたびに自分の選択肢の一つが物理的に消えるのだと、彼女は理解し始めていた。今はまだ一つだが、蓄積されたら取り返しがつかない。

「やるのか、それとも守るのか」ミカエルが問う。彼の視線は仲間たちに流れ、最後にセリーヌに止まった。「もし塔を動かす道を選ぶなら、単独突入は危険だ。エルドランはすべてを封鎖する。だが…」

言葉を切ってミカエルは隊列