町役場の広報課で遠距離を始めるふたりは恋より先に自分を許す 第4話「第3章」
蛍光灯の白が、机の上のスコアシートを冷たく照らしていた。欄は細かく分かれ、クリック数、ページ滞在時間、回覧率、行事への参加申込数──町役場の広報課が求められる「成果」は、すべて数値で埋められるようになっている。透はそのシートを指先でなぞり、数字の角に跳ね返る光を見た。
蛍光灯の白が、机の上のスコアシートを冷たく照らしていた。欄は細かく分かれ、クリック数、ページ滞在時間、回覧率、行事への参加申込数──町役場の広報課が求められる「成果」は、すべて数値で埋められるようになっている。透はそのシートを指先でなぞり、数字の角に跳ね返る光を見た。
「これで次の予算審査、ある程度は示せるはずだよ」と、課長の浦上が前倒しの笑みを浮かべる。浅黒い顔に皺が寄り、机の端に置いた電卓が小さくカシャリと音をたてた。周りの席からはコピー機の唸りとキーボードの断続音が聞こえる。広報は町の顔だ。評価できるものは評価し、効率の悪い手法は切る。浦上の声はいつになくまっすぐで、透の胸を押した。
透の視線はスコアシートから机の片隅にある、封筒の裏側へ移った。そこには年寄りの住民が出した投書が入っていて、縁が擦り切れ指紋が一つ、朧げに残っていた。インクの滲みではない、紙の繊維に押し込まれた凹みと、薄い油の匂い。透は思わず封筒を拾い上げ、その凹みを親指の腹で確かめた。目には見えない「誰かの手の跡」が、そこに確かにある。
「どうした、透?」と、絵里が肘をついて近づいてくる。昼休みに差し掛かる時間帯で、彼女の髪が肩にかかるたびに薄い墨のようなインクの匂いが混じる。絵里は来週には隣町の支所に異動することが決まっている。透はその事実をいつもより強く感じた―紙の匂いと同じように、近づいては消えるものとして。
「この投書、」透は封筒を差し出した。「指紋が残ってる。……ちょっと、触ってみる?」
絵里はためらいながらも封筒に触れた。二人の指が同じ場所に重なると、紙の繊維が温かく反応した。透の胸の奥でいつもの感覚が微かに波を立てる。共同で作ったものにだけ残る、あの手触り。言葉にすると単純だが、いつもそれは曖昧で、匂いと圧の記憶が混ざったようなものだった。
「分かる?」透が小声で尋ねる。
絵里は唇を噛んで少し笑った。「うん。誰かがこの町を心配してるってこと。だけど、何を言おうとしてるかは分からない。分からなくていい気もするけど」
透はいつもどおり、自分の能力と向き合うときに生まれる慌ただしい安心と恐れの混ざった感情を抑えた。能力は万能じゃない。二人が共同で作ること、触れること、時間を共有すること。それが条件だ。そしてもう一つ、いつも彼の頭に冷たい釘として刺さる制約がある――痕跡を「決めつける」ほど、それは見えなくなる。急ぎすぎれば共同制作そのものが壊れる。
「浦上がまた評価表を出してきた」と絵里が続ける。「この町、今年は観光客誘致の助成があるって。広報の指標で点を取らないと、うちの予算が縮む。だから数字で出せるものを、と。だからこそ、私が向こうの支所へ行っても、デジタルで数を伸ばしてほしいって……」
「数だけじゃ、伝わらないこともある」と透は言った。自分の声が予想よりも低く震えているのを感じる。封筒の指紋にそっと触れ、何かを確かめたかった。だが確かめればするほど、その手の跡はロウのように溶けてしまう。
そのとき、デスクを挟んだ向こう側で矢田が声を上げた。「ねえ、今の統計だと、クリック率は見出し変えた方が伸びるぞ。とりあえず先出しして数稼いどいた方が安全だろ?」
矢田がさっと操作した端末の画面が、課内共有サーバーへと送られていく。彼は数字に強く、即効性のある手段をよしとしている。矢田の指先は速く、画面の上で何行もの語句を削り、広告用の一語を付け足した。彼の判断は自律的だ。彼の自律的な選択がこの場にある。
透はその送信ボタンが押されるのを見て、胸が引き攣った。矢田は悪気があるわけでもない。上からの圧力に耐えるために、速やかに数字を作る。それは制度の論理であり、個人が悩む余地を奪っていく。投書の指紋から立ち上る感触は、二人で確かめていたときにはまだあった。矢田の手が他の人の言葉を割り込ませた瞬間、その感触は薄れていった。
「ちょっと待ってくれ、まだレイアウト固めてないんだ」透は手を伸ばし、矢田の画面に触れようとした。その動作は同時に、共同制作の器を守りたいという欲求でもあった。だが矢田は彼の手を見て眉をひそめるだけで、送信済みのマークを指で示した。
「もう出したよ。責任は取る。数字が足りなきゃ補助金もらえないんだ。うちの仕事は守るためにも攻めるのが必要だろ」
言い分は正しい。だが矢田のその一手で、封筒についていた二人の触れ合いの痕跡が薄れていくのを透は感じた。紙の温度が下がるように、あの曖昧な記憶――「誰かが心配している」以外の細かな匂いや圧の波が消える。透はそれを無理に留めようとして、自分の解釈を突きつけた。
「この投書はただの苦情じゃない。ちゃんと町の人の顔が見えるやり方で、伝えられないか?」
矢田は肩をすくめた。「顔なんて見えなくていい。数字に反映されれば、それで顔も増える」
絵里の目が透に落ちた。彼女の唇が小さく震える。透は自分が勝手に期待していた「誰かとの協同」が、ここでは崩れていくのを見た。絵里は仕事上で合理的な選択を迫られることに慣れているはずだ。だが今の彼女は、離れる前の最後の仕事で、自分が何を残したいのかを考えているようだった。
「数字だけで人は動かない」と絵里は言った。「でも、数字が無ければ私たちの仕事は存在が脅かされる。私も、どっちを選ぶか迷ってる」
その迷いは透にも伝染した。彼はいつも、能力の使い方を巡って自分を責めてきた。誰かの気持ちに触れたくて、でもそれを決めつければ見えなくなってしまう。遠距離になる前に、絵里と二人で残したいものがある。だが制度はそれを許さないように見える。
その夕方、広報課に二つの案件が同時に舞い込んだ。町民寄せ書きの小冊子と、来週の「町民祭」公式パンフレットのデジタル版。パンフレットは地域の観光助成に直結しており、参加クリック数と申込数がそのまま評価へ直結する。小冊子は町の歴史や住民の声をまとめるもので、共同作業で作られることが前提だった。
「パンフは先にネットで出しちゃって」と浦上。彼の声にはもう迷いがなかった。だが小冊子は、住民の手で作ることが理想だと、町の文化課長からの依頼にも書かれている。二つの案件は同時に、でも違う方向へ人々を引っ張っていた。
矢田はパンフレットを先に、と言い、他の数名はそれに従った。だが小冊子の担当は矢田以外の席の者たちが「住民参加」を掲げて自律的に手を挙げた。勝手に分かれたチームの中で、透と絵里は小冊子の草稿を共同で作る提案をした。だが作業のやり方で早速溝が生じる。矢田たちのように即時にアップロードして「数字を作る」やり方か、手渡しで一ページずつ住民と作るやり方か。
「遠距離でもできる?」絵里が透に訊く。その声は静かで、でも決意の線が通っていた。彼女はもうすぐ支所へ行く。時間に余裕はない。
透は封筒の指紋を思い出した。あの温度を取り戻したければ、急いではならない。だが時間はない。もし彼が遅れれば、矢田たちが勝手に先へ進めてしまうだろう。共同制作の中心が崩れれば、痕跡は残らない。
透は深く息を吸って、手帳を開いた。そこに小さく「市民ワークショップ」と書き込む。住民を呼んで、一緒に一冊の小冊子を