町役場の広報課で遠距離を始めるふたりは恋より先に自分を許す 第19話「第17章」
会議室の長机の上に、紙焼きされた写真が一列に並んでいた。蛍光灯の光が白く伸び、紙の端にわずかな光沢を作る。のりの匂いとインクの温度、コピー機の冷えた金属音。透は一枚の写真をつまんで、いつもの癖で角をなぞった。指先にざらつきが残る。壁にはすでに六十枚を超える写真が貼られていて、遠景が少しずつ組み上がろうとしていた。町の祭りの雑踏、空き地に咲くタンポポ、老舗の豆腐屋の暖簾、律子の手を握った瞬間の掌の皺。あの日の謝罪の後から続く時間が、そのまま紙になっている気がした。
会議室の長机の上に、紙焼きされた写真が一列に並んでいた。蛍光灯の光が白く伸び、紙の端にわずかな光沢を作る。のりの匂いとインクの温度、コピー機の冷えた金属音。透は一枚の写真をつまんで、いつもの癖で角をなぞった。指先にざらつきが残る。壁にはすでに六十枚を超える写真が貼られていて、遠景が少しずつ組み上がろうとしていた。町の祭りの雑踏、空き地に咲くタンポポ、老舗の豆腐屋の暖簾、律子の手を握った瞬間の掌の皺。あの日の謝罪の後から続く時間が、そのまま紙になっている気がした。
「この写真、ここでいいんじゃないか」飯島が声を張る。広報課の副主任。コーヒーの紙カップをカリッと潰しながら、プリントの列を眺めている。課長の大倉はテーブルの端に寄りかかり、尻の下でフォルダが擦れる音がした。律子は静かに椅子に座り、爪先で床の継ぎ目を探していた。彼女の膝の上には、切り揃えられたタグやメモが整然と置かれている。手の震えは少し収まったようで、でもまだ指先が氷だった。
結奈が画面越しに覗き込む。ノートパソコンのカメラ越しに見える結奈は、窓の外の雨の光を背景にしていた。時差と距離に慣れてきたふたりの小さな合図のように、彼女は「大丈夫?」といつもの言葉を投げる。透は息を吐いて、画面の明かりに顔を映した。
「……ゆっくりでいいと思うよ。二人で作ってるんだから」結奈の声は、回線越しでも優しくて理路整然としていた。遠距離は始まったばかりだが、結奈は制作の進め方に関しては冷静だった。透は彼女の瞳の中にある小さな揺らぎを読むだけで安心する。
律子が小声で言った。「あの、公開の予定日って……本当に必要ですか?」
飯島が渋い表情でカレンダーを指差した。市の広報誌に短い特集枠が空いている。地元の注目は大きく、タイミングを逸するとスキャンダル扱いになる可能性がある。大倉の口数は少ないが、計算は確実だ。「市長が目を通したがっている。好意的に受け取られれば、町のイメージとしてもいい。遅らせる理由があるなら、明確にしてほしい」
律子は机の上の写真を撫でた。写真は彼女の笑顔を追っているわけではない。彼女が移動する軌跡、手が触れた扉の跡、立ち止まったベンチの陰。謝罪の言葉だけでは変わらなかった日常の断片だ。透はその配置を見つめながら、胸の奥がキリキリとした。
彼らがいま取り組んでいるのは、単なる広報物ではなかった。透が提案した「一緒に作る写真集」は、謝罪を形にするための共同作業だった。律子が許すかどうかを、言葉だけに委ねない道筋。だがその核心は、透だけが知っている奇妙な感覚にかかっていた——二人が共同で作った物にだけ、微かな「痕跡」が残るということ。
透が指先を写真の表面に置くと、いつもと違うものが触覚のからだに降りてくる。遠くに小さな風が吹いたような感覚。色ではなく温度の差、記憶の輪郭が紙の繊維に沿って微かに振動する。律子が同じ写真を撫で、ふたりの指が写真に同時に触れた瞬間、透の視界の端に細い光の筋が走った。それは言葉を持たず、音もない。だが彼はこれを「痕跡」と呼んでいた——その表面に残された共同の時間の履歴。
小さな光は、律子の吐息のリズムと、謝罪した日の透の震えた手とを重ね合わせるように形を成した。だがその光は極端に脆かった。飯島が前に出て、早く進めようと写真をひとまとめにして箱に入れようとしたとき、透は反射的に手を伸ばして止めた。指先に鉄の味がした。光の筋がす〜っと消えていく。写真に残っていたはずの柔らかい痕跡が、糸を切られたように切れてしまったのだ。
「今の、何したんですか」律子の声は鋭くなった。透の胸の内で小さな針が刺さる。飯島は困った顔をしたが、やや投げやりに肩を竦める。「時間が無いんだ。市のスケジュールもある。話し合いは結構しただろう」
透は何も言わなかった。ただ、自分の掌に残った冷たさを感じていた。写真から切り離された痕跡の消失は、彼の内側にも痕跡を作った。透は、能力を行使するたびに自分の中のある断面——特に謝罪をしたその瞬間に感じた純粋さのような記憶——が薄くなることを知っている。過去に何度か、その代償のせいで、謝りたかった本当の言葉まで朦朧としたことがあった。だからこそ、無理には進められない。
結奈が画面の中で眉を寄せる。「強引に進めたら、壊れるよ。痕跡は見せ物じゃない。二人で作る過程が残るから意味があるんでしょ?」
その時、課内のメール音が一斉に鳴った。大倉が手元のタブレットを持ち上げ、目を走らせる。彼の眉がぴくりと動いた。画面の向こうには項目が並び、件名のひとつに赤い丸が付いている——「公開日の調整について」の下に、見慣れない通知があった。
「おかしいな……だれか、広報協会の掲示板に写真の低解像度サンプルが……」大倉の声は驚きに満ちていたが、机の上の空気は一気に冷えた。飯島が唇を噛み、律子の顔色をうかがう。律子はスマートフォンを鷲掴みにして画面を確認した。画面の中の小さな縮小画像は、あまりにも断片的で、だが確かに見覚えのある一枚を映していた。透と律子が同時に触れた写真の、ぼやけた輪郭。
「誰が……」律子の指先が震える。公開前に何かが外に出たという事実が、これまで築いた共同体験を勝手に消費しようとする圧力を可視化した。噂、推測、評判——それは本来ならば住民の選択を尊重するはずの装置で、今は薄暗い刃に変わっていた。
飯島が立ち上がった。「俺が調べる。誰が上げたか突き止める。内部の流出なら大問題だ」
大倉は首を振った。「まずは対応だ。情報管理班と連絡を取り、削除申請を出す。だが、この種のものはコピーが拡散する。見せ物にされかねない」
透は急に、手をぎゅっと握った。掌が痛い。光を読むたびに淡くなっていく自分の中の「謝りたかった」部分が、今度はリアルに消えそうで怖かった。痕跡を守るために、彼は何を差し出すのか。自分の心の一部まで差し出すつもりなのか。
律子が顔をあげ、透を見た。その視線には不安とともに、小さな決意が光っていた。「もし、これが勝手に広がったら、私はまた誰かに傷つけられた気持ちになる。今度は、それを防ぎたい」
「じゃあ、どうする?」飯島が訊く。圧力は外からも内からも迫ってくる。公務員としての義務と、個人の尊厳の間で揺れる瞬間だ。中原がテーブルの端で咳をした。彼は若手の担当で、ふだんは目立たないが、顔には覚悟が宿っていた。
「私は担当者として、これを公開しないという判断を支持します」中原が口火を切った。「ポリシーに反するでしょ。本人の意思を無視して広報するのは、役場の立場の悪用だ」
飯島が一瞬黙り、大倉が細くため息をつく。「それで市長にどう説明するつもりだ。逆らえば、課としての評価に響くぞ」
律子が指でテーブルを小さく叩いた。針で刻まれるような音。透はその振動を指先で感じ取った。律子の目には、かつての傷と向き合おうとする厳しさがあった。「私は、自分の意思を奪われたくない。あなたたちが守ってくれるなら、その守り方を信じたい。公開は、私が準備できたら私が合図します」
一瞬の沈黙のあと、飯島がゆっくりと頷いた。予想外だった。彼が先に席を立ち、ゴミ箱に廃棄された紙の山を一つ拾い上げる。中