夏祭り実行委員会で片想いを代行する同僚は大人になりきれない夜を越える
夏祭り実行委員会で片想いを代行する同僚は大人になりきれない夜を越える 第10話「第9章」
倉庫の扉は古い蝶番の音を立てて閉じた。昼下がりの光が小さな窓から差し込み、埃が浮かんでゆっくりと舞う。指先にまとわりつく乾いた空気の匂いと、紙の黄ばみが混ざるにおいが、いかにも忘れられた場所らしかった。
倉庫の扉は古い蝶番の音を立てて閉じた。昼下がりの光が小さな窓から差し込み、埃が浮かんでゆっくりと舞う。指先にまとわりつく乾いた空気の匂いと、紙の黄ばみが混ざるにおいが、いかにも忘れられた場所らしかった。
「ここだよ」
瑞月が膝をついて、木箱のラベルをめくる。文字は鉛筆で乱暴に書かれていて、"制作手順書"、"過去記録"、"評価一覧"と並んでいた。彼女の指先が一段と力を込めると、古い紙の端から淡い墨の色が、まるで眠りから半ば目を覚ましたようににじみ出した。陽光がページをなぞると、そこに薄い筆跡が浮かび上がる。
「見える?」と瑞月が囁く。声は、倉庫の静けさに馴染んで小さく跳ねる。真田翔は懐中電灯の角度を変え、紙面に光を当てる。大沼奈緒は箱の上に肘をつき、ほこりで真っ白になった古写真を撫でた。
凛央はそっと一枚を引き出し、指の腹で紙をなぞる。そこには、古い舞台装飾の設計図と、手順を書き記した小さな注記が重なっていた。注記は二つの筆跡が重なり合うように書かれており、隅には小さな丸印が押されている。触れると、胸のどこかが温かくなるような錯覚があった。それが――痕跡だと凛央はわかった。
「共同で作ったものだけに残る、っていうのは本当かもしれない」
凛央の声は自分でも驚くほど震えていた。能力の片鱗が、紙の繊維を伝ってほのかな光景を描いた。二人の手の動き、会話の断片、夜更けの笑い声。だがそれは断片で、完全ではない。全体を読もうとするほど、輪郭はにじみ、つかめなくなる。
「でも、どうしてこんな書類が――」と奈緒。彼女はページをめくり、別の紙片を指差した。そこには、手書きのメモのようなものの下に、タイプ打ちされた表が貼られていた。表の見出しは冷たく、無機質だった。"痕跡換算表"、"使用申請様式"、"スポンサー向け報告書例"。言葉が並ぶだけで、凛央の胸に硬い塊が落ちる。
「痕跡を数値化してる……?」翔が息を呑む。光の中で、表の端に小さな注釈が目に入る。細い筆記体が斜めに入れられており、そこにはこう書かれていた。
『共同制作物の感情痕跡は調査の対象とする。得点化の可否は委員会裁量。ただし本人への告知が望ましい。』
告知が望ましい――という曖昧な言葉の裏に、済し崩しに進められてきた仕組みが浮かぶ。凛央の頭の中で、真夏の夜の笑い声や、名札に刻まれた名前が、委員会の報告書のグラフと繋がっていく。
「無断で利用されてた可能性がある」瑞月の声に、倉庫の空気が冷たくなった。彼女は慎重に別のファイルを引き出す。そこには過去五年分の『評価連絡記録』が綴られていて、日付の横に受領者の印が押されていた。印には委員長や外部の関係者の名前が並ぶ。
凛央は、指先の痺れを感じながらも、その場で確かめたくなった。手近にあった小さな布切れを掴み、二つに畳んでみる。これは数年前に装飾用に作られた布の切れ端だ。作り手は複数の名前が記されていた:高校生の演劇部員、地域のボランティア、そして実行委員会のスタッフ。共同制作という二重の条件に合致していた。
「さわってみるか?」翔が差し出すが、凛央は首を振った。「私、やってみる。だけど――」
彼の言葉はそこで止まる。言いかけた「だけど」の後にある代償が、いつも胸を引き裂くのを知っている。痕跡を読み取るたびに、凛央の中の何かが薄くなる。記憶の端がぼやけ、夜明け前のはかない匂いを忘れてしまうこともあった。さらに、読みたい気持ちを言い切ってしまうと、痕跡は一瞬で消えてしまうというルール。決めつけるほど、見えなくなる。
指を布の上に置くと、ふわりと冷たい感触が伝わってきた。その下にあるのは、二人で共有した時間の重み。凛央は心の中で、念じるようにだけ言葉を組み立てた。「誰と、どんな場面で作ったものか――だけを感じ取る。」
イメージが入ってきた。縫い目に触れる手、隣で誰かが笑う音、肩がぶつかった瞬間の小さな痛み。だが言葉を添えて意味を固定することはしなかった。すると痕跡は脈打つように濃くなり、より多くの細部が流れ込んできた。毛羽立った糸、指先のインク染み、小さく残された「ありがとう」の鉛筆書き。
「二人で作った確証だ」凛央は息を吐く。だが頬に、冷たい違和感が広がった。読み取った直後、視界の端がわずかに白んだ。五分ほど前に覚えていた、駅前で飲んだアイスコーヒーの味を思い出せない。凛央は自分が何かを失ったことに気づく。代償だ。使うたびに、何かが薄れる。
「大丈夫?」奈緒が心配そうに問う。凛央は首を振り、頬を手で擦った。些細なことだと自分に言い聞かせながらも、胸の奥は冷たく、そして決意で熱くなった。見つけた資料は、誰かの生活を勝手に数値化し、扱ってきた証拠だ。痕跡を奪われた側――守られるべき相手――は、選択肢を奪われてきたのだ。
「ここに、無断利用の手続きが残ってる」瑞月が別のページを指差す。そこはさらに古い紙で、鉛筆の濃淡がより強く保たれていた。スローモーションのように、凛央の視界にその文字が迫る。『痕跡の第三者利用、委員会裁量により可。個人への事後報告を原則とするが、催促を優先する場合は例外とすること。』最後の一行は、鉛筆を強く押したように、かすれた点が付け加えられていた。
「催促を優先する場合――」翔が低くつぶやく。「つまり、イベントの成功や人気を優先して、個人の意思を押し切れるってこと?」
「そしてその"催促"がデータとして外部に出されていた」と奈緒が結論づける。彼女の指先が震えるのを凛央は見逃さなかった。仲間たちの顔に、怒りと失望が混ざる。だが同時に、彼らは自律的に選択を始めていた。個人の悪意ではなく、制度の穴が人を壊してきたことを理解すると、怒りは具体的な行動に変わる。
「ここだけじゃ足りない。もっと上までたどらないと」瑞月が言う。彼女は倉庫の奥の棚を指差した。そこには、金庫のように頑丈な書類保管箱が積まれている。鍵のかかった一つの箱には封印が残っていた。封印には、現委員長の名前に似た署名と日付。日付は三年前、今のシーズンの前だった。
凛央は立ち上がり、身体の奥に戻ってきた冷たさを抱えて、ふと自分の手を見る。能力を使う度に失うもの。大人になりきれない夜を越えようとする自分の目的。その夜を越えるために、何を差し出せるのか。今はまだ、答えは出ていない。ただ一つ、確かなことがある。真実を知れば、選択が生じる。仲間たちもまた、選ぶことになるだろう。
「情報を揃えよう」瑞月の声には決意があった。翔は頷き、奈緒は鍵穴に向けて手袋をはめる。その瞬間、凛央の心に小さな恐れがよぎる。封印の向こうにあるのは真実か、さらに深い欺瞞か。
彼らは声を落とし、周囲に気配を消して箱に近づいた。凛央は自分の能力を使う回数を押さえながら、封印の端に指を触れた。皮膚に伝わる金属の冷たさと、紙の乾いた温度。彼女は深呼吸をしてから、仲間たちに向けて静かに言った。
「ここから先は、僕らだけでやる。誰にも知られないように。被害者が選べるようにするために、証拠を固める。無断利用を暴く──だけど、暴く前に、守る手を用意する。いい?」
一拍の沈黙。瑞月が真剣な目で頷く。翔は唇を噛み、奈緒は小さく笑った。