夏祭り実行委員会で片想いを代行する同僚は大人になりきれない夜を越える

夏祭り実行委員会で片想いを代行する同僚は大人になりきれない夜を越える 第1話「序章」

提灯の列が、夜の空気をやわらかく切り取っていた。紙の膜に灯るオレンジが、作業用の蛍光灯とは違う温度で手元を照らす。柚木は袖をまくり、のりのついた刷毛を慎重に動かした。のりの匂いが鼻の奥に届き、夏草の匂いと混ざる。隣では相沢理緒が黙々と折り紙を折り、向こう側にいる佐伯誠は糸を巻いている。三人で一つの提灯を仕上げる夜だった。

提灯の列が、夜の空気をやわらかく切り取っていた。紙の膜に灯るオレンジが、作業用の蛍光灯とは違う温度で手元を照らす。柚木は袖をまくり、のりのついた刷毛を慎重に動かした。のりの匂いが鼻の奥に届き、夏草の匂いと混ざる。隣では相沢理緒が黙々と折り紙を折り、向こう側にいる佐伯誠は糸を巻いている。三人で一つの提灯を仕上げる夜だった。

「もう少し左、柚木さん」

理緒の声は小さくて、しかし確かな要求だった。彼女の指先は震えない。佐伯は、声を出す代わりに微かに眉を上げて同意を示す。二人の手が同じ紙の端を押さえた瞬間、柚木は無意識に自分の手を重ねた。そこに触れると、いつもと同じ小さな兆候が起きることを知っている。

彼が力を入れすぎないように、柔らかく指先を合わせると、紙の筋に沿ってかすかな光が走った。それは視覚よりも、まるで手のひらに残る温もりのように感じられた。光は蝶の羽のように淡くて脆く、絵の具のにじみのように揺れる。柚木は息を止めた。

「見えるの?」理緒が訊く。声に期待と不安が混じっていた。

「……聴こえる、というか、触れる、かな」柚木は言葉を選んだ。彼らが一緒に作ったものだけに残る、という自分の能力の説明を、夜ごとに短く繰り返してきた。生の声を聞くのではない。残るのは色や形ではなく、手の動きのあとに刻まれる“気持ちの痕跡”だ。決定的な意味合いではなく、匂いや震えのようにしか伝わらない。

理緒と佐伯の手元を見ると、紙の縁に小さな斑(まだら)が浮かんでいた。理緒側はほんのりと暖かい。決心のある暖かさ。佐伯側は少し冷たく、でも線が細い。柚木の胸の中に、二つの温度の差がシルエットとして映る。告白に近いか、それともただの親切か。微妙なものが、どうにもはっきりしない。

「それって、どういう……?」佐伯が訊き返す。珍しく言葉を探している様子だった。

柚木は、たった一つのルールを思い出す。痕跡は、決めつけるほど見えなくなる。だから彼は、文字で読み取るような言い方をしないようにしている。だが今夜は、周囲が騒がしい。実行委員会の別のメンバーが通り過ぎ、次の作業の割り振りについて軽い口論を始めた。外では浴衣姿の同僚たちが花火の音を背景に写真を撮っている。評判や採点が話題に上る。夏祭りはいつも誰かの評価対象になりがちだ——それがこの町のやり方だった。

「つまり、今はまだ確定じゃない。理緒さんは行く気持ちがある。佐伯さんの気持ちは、まだ整理中、かな」柚木は微笑むつもりでそう言った。理緒は小さく頷いた。佐伯は唇を噛んだ。

そのとき、向こうの作業台から小池が飛んできて、あっという間に会話に割り込んだ。小池は実行委員の中では声が大きく、評価や人気の数字に敏感なタイプだ。

「いいね、その提灯! これ、来場者投票用に並べたらウケそうだよ。ついでに『カップリング人気』みたいな企画にして、社内でも盛り上げようぜ」

その言葉は夏の夜気のように広がった。理緒の顔が一瞬ひるむ。佐伯は渋い顔をして目を伏せる。柚木の指先で感じていた温度が、急に引き裂かれるように薄くなった。彼の能力は、共同で作られたものにだけ残る。だが今、その“共同”が外部の評価という装置に引き込まれようとしている。

「やめてください」理緒がぽつりと言った。小声だったが、そこに揺るぎはない。だが小池は気にも留めず、スマートフォンを取り出して企画書のたたき台を見せる。紙片の上で指が滑り、言葉が勝手に踊る。評価や噂が関係を商品化する瞬間を、柚木は手に取るように感じた。

彼は選択しなければならない場面を何度も避けてきた。人の気持ちを預かることで、誰かの決断を“代行”する形に収めてしまう。そうすることで、自分はいつまでも決定を他人にゆだねたままだった。大人になりきれない夜を越える、という言葉は口に出すと自分を晒してしまうから、柚木はあまり言わない。だが理緒の小さな頷きが、彼の内側を揺らす。

「小池、これは遊びでやることじゃない。人の気持ちは消耗品じゃない」佐伯が口を開いた。声は低く、しかし明確だった。驚くほどに力が宿っていた。

小池は舌打ちして肩をすくめた。「堅苦しいなあ。盛り上がれば、みんな楽しくなるじゃん。職場のムードも上がるし」

「でも、それは——」佐伯が続けようとしたとき、理緒が紙を掌で覆い、決めたように言った。「私、明日、佐伯さんにちゃんと言います。投票とかにしないで、私から直接。」

場の空気が一拍止まる。佐伯の目が理緒に向く。理緒の頬は少し赤い。彼女の手のうちの光が、一瞬だけ強く見えたような気がして、柚木は息を呑んだ。自分が介在しないで、二人が作業の合間に自分で選ぶ――それがこの夜の本来の有り様だと、体がじんと知らせる。

小池は肩をすくめ、諦めたように笑った。「そっか。じゃあ、そっちに合わせるか。まあ、夜は長いからな、好きにしなよ」

小池の背中に残ったのは、どこか放り投げられた空気だった。彼は去って行き、提灯の列は再び二人だけの世界を取り戻す。柚木は再び紙の斑を見る。理緒の側は温かく、佐伯は冷たく見えたものの、どちらも確信を持たない“待ち”の色だ。

「手伝ってくれてありがとう」理緒が言う。声は震えていないが、その言葉には、昨夜までの柚木にとって重い意味があった。誰かの背を押すことに慣れている彼が、今夜は自分の手で何かを守りたいという気持ちになっていた。

柚木は紙の端をそっと撫でる。能力を使うとき、たまに代償が顔を出す。今日はそれがどんなものか、薄々わかっていた。痕跡を決めつけようとすると、それは消える。関係を急がせれば、共同で作るものは壊れる。だがそれだけじゃない。自分が他人のために“結論”を出すたびに、自分自身のある小さな何かを失っていく感覚がある。それは名前のない感情で、昨日まで笑えたある冗談を忘れたり、好きだった夏の匂いが急に遠くなったりする。使い続ければ、自分の夜は薄くなる気がするのだ。

「僕は……」柚木は言葉を切る。言い切れば、痕跡は消えるかもしれない。理緒と佐伯の合図のような温度を壊すかもしれない。彼は小さく息を吐き、選んだ。

「明日、二人で仕上げるつもりで、今日のはそのための土台にしよう。明日またここで——そのままでいいか確認しよう」

理緒の瞳が少し潤む。佐伯はぎこちなく笑った。「ああ、わかった。ありがとう、柚木さん」

それは、不確かさを尊重する選択だった。安易に白黒をつけないこと。その代わりに、二人に自分たちで選ばせる余白を残すこと。柚木は自分が何かを守った気がした。だが同時に、胸の奥で冷たいものが蠢く。

「柚木さん、いいか?」佐伯が低く囁いた。声はほんの一瞬だったが、そこには外に出せない決意が潜んでいた。「こういうの、放っておくと周りがややこしくする。……もし、何かあったら、頼む」

その頼みは、誰かの決断を代行することではなく、守ることを頼んでいるように聞こえた。柚木は頷いた。守るなら、他人の選択を奪わないで守るべきだ。彼の中の少女時代の、決めてしまえば楽になるという逃げ癖が、もう一度顔を出した。しかし今は、少し違う。ほんの少しだけ、彼は大人になろうとしているように思えた。

夜風が通り、提灯がふわりと揺