田園の駅で秘密主義の先輩は最後の夏を記録する 第11話「第10章」
プラットフォームの端で、線路沿いに延びる稲の風が夕陽を撫でていた。蝉の合唱が途切れ途切れに戻ってくる。桜庭湊は古びた木製のベンチに座り、指先で小さな布の冊子を撫でていた。布は乾いた糊の匂いを漂わせ、指の腹にほのかな凹凸が残る。隣には椎名菜月がしゃがみ込み、カラフルな紙片を整えている。二人の背後には、今日持ち出した道具箱──水張りテープ、布用の糊、切れ端の絵の具、そして桜庭が大事にしているトランク型のポラロイドカメラ──が散らばっていた。
プラットフォームの端で、線路沿いに延びる稲の風が夕陽を撫でていた。蝉の合唱が途切れ途切れに戻ってくる。桜庭湊は古びた木製のベンチに座り、指先で小さな布の冊子を撫でていた。布は乾いた糊の匂いを漂わせ、指の腹にほのかな凹凸が残る。隣には椎名菜月がしゃがみ込み、カラフルな紙片を整えている。二人の背後には、今日持ち出した道具箱──水張りテープ、布用の糊、切れ端の絵の具、そして桜庭が大事にしているトランク型のポラロイドカメラ──が散らばっていた。
「先輩、これどうやって配る?」菜月が頭を傾け、声にまだ子供っぽい訛りを残している。夕陽が彼女の前髪を透かし、金色の縁をつくる。
桜庭は冊子を掌で包み直す。布地には真島涼子と二人で綴じた小さな綴じ穴があり、そこに交わった糸の端が二本だけ顔を出していた。共同制作物に残る「痕跡」を、彼はいつもその縫い目で確かめていた。触れると、誰とも言わず記憶のひだが震えるような感覚が湧く。暖かさでも、音でもない。匂いでもない。無数の小さな「あと」が、目には見えない色となって指先に伝わるのだ。
「二人組で作るって、説明した方がいいかな」菜月が言う。
「説明は要らない。やりながら気づくことが多い」桜庭はそう答えた。言葉にするたびに、自分の秘密が薄くなるようで、答えはいつも手短になった。秘密主義と言われるのは、彼自身が誰かの言葉で痕跡の意味を決めることを恐れているからだ。決めつけると、見えなくなる。
「先輩、またそんな顔。大丈夫?」菜月が茶目っ気を含んで彼の肩をつついた。ささやかな緊張を笑いで埋めようとする彼女の手は、まだ若い熱を持っていた。
そのとき、ホームの階段から人が降りてきた。黒いスーツに白いシャツ、名札のついたクリアファイルを抱えた男。飯島拓也──数字化サービスを請け負う業者の若い営業らしい。彼は階段を降りる足取りを遅くして、遠くの田んぼの向こうを眺めるふりをしてから、桜庭たちに近づいた。
「こんばんは、ここがワークショップの集合場所ですね?」飯島の声は固い。「あの、弊社からお願いがあるんですが、駅の利用と公共空間の管理の関係で、当日こちらに弊社の端末を設置させていただきたいと、自治体に打診が通りました」
桜庭はその言葉を受け流すように目を細めた。端末。彼らの共同制作を「スキャン」し、数字に変える装置が、ここに置かれるということだ。飯島の横顔は夕陽に赤く染まり、どこか若々しい無邪気さを残している。
「端末があると、参加の証明になって……」飯島は続きを言いかけて戸惑い、そのまま笑った。「あ、もちろん、強制するものではなく、任意です。利用者の記録が残ると便利だと思いまして。個人のプロファイル作りや推薦につながる、という形で」
菅笠のように光る言葉だ。推薦。便利。断りきれぬ優しさを装って制度は潜り込む。
真島涼子が顔を曇らせた。彼女は受験のことを気にしている。周囲の評価がすべて結果に繋がるという噂──評定制度──が、彼女の進路の選択肢から余地を剥がしていたのを、みんな知っている。湊はそっと冊子に視線を落とした。共同で作ることが、少しずつ外部の目に晒されるのは好ましくなかった。
「任意、って言っても」真島が声をひそめた。「公的に『推奨』されてると、結局参加しないと損みたいになる。私、あの数字に惑わされたくないんだよ。私が何を選ぶかは、私が決めたい」
飯島の表情は一瞬揺れたが、すぐに営業の笑顔に戻る。「弊社は選択を支援するだけで、強制はしていません。むしろ参加者が自分の足跡を記録できる良い機会になると思います」
彼が名刺を差し出す。白い紙に黒い文字。裏には小さなQRコード。湊は受け取らなかった。彼が何かを言う前に、佐伯悠が走って来て、携帯を震わせながら近寄ってきた。佐伯は学内でも有名な小さな改造屋で、端末のプロトタイプも分解して遊ぶような少年だ。
「これ、今日の午前に自治体に回った文書の抜粋だよ」佐伯は息を切らしつつスマホの画面を皆に見せる。画面には淡いグレーの公式文書。条文が並び、末尾には業者名のロゴ。文書の一段落に、目を見張るような一行があった。
『公共制作物の一時的デジタル化および、利用者情報の匿名化された二次利用に関する承諾』
「匿名化って書いてあるけど、実際は個別のプロファイルに紐づけるって話なんだろ?」佐伯が眉を寄せる。「アルゴリズムは行動履歴から嗜好を推定して、推薦を出す。参加者がどう動いたかを全部集められるってことさ」
湊の胸のあたりが、重くなる。共同制作の痕跡を外部に渡せば、そこに書かれた「あと」は企業の資産になってしまう。彼が守ろうとするのは、誰かの選択の痕跡が商品化されることではなく、そこに残る声が当人のままであることだった。
「なら、端末があるなら公開ワークショップはやめるべきだ」真島が低く決めた声で言った。「公開で作るのは、記録を取られやすい」
「代案は?」菜月が小首をかしげる。
「ペアでやる。二人だけの小さな『ポケット』を町中に点在させるの。駅の周りの空き家や古い倉庫、農家の縁側を借りて」真島の目が光る。「互いに評価せず、端末を近づけさせないルールを作る。外部の目が入る余地をつくらないこと。それから――」
湊はその言葉を聞きながら、掌に握った冊子をもう一度強く握った。胸の中で何かが鳴った。彼は既に、大きな輪で一度ミューラル(壁画)を作ってみせたことがある。多くの人の手が重なれば、それは圧倒的で強烈な作品になるはずだった。しかしその時、共同制作は急ぎすぎ、誰かが作業をリードして「こういう意味だ」と決めつけた瞬間、色合いは薄れ、布地は裂け、その痕跡は消えた。共同の時間を急いで産物だけを求めた代償として、湊はその夜、ふいに北の海の夕暮れの匂いを忘れた。鮮やかな記憶の断片が、薄れていったのだ。
「先輩、何か変じゃない?」菜月の声に、湊はハッと息を吐いた。冊子を掌から離すと、そこに残っていた温度が小さく散ったような気がした。
湊は決めた。彼が能力を安易に頼れば、また自分の内から何かを失う。あれは単なる疲労や痛みではない。痕跡を他者の意味で仕上げようとする行為が、彼自身の記憶を切り落とすのだ。だからこそ今回は、自分の力を使わず、声を集める方法で行く。ワークショップの運営に徹し、痕跡を物質として増やすのではなく、参加者自身が自らのルールを作る場を作るのだ。
「今日の予定を変える。公開で一枚の大きな絵を作るのはやめる。ペアワークを基本にして、参加は申し込み制。端末は持ち込ませない。代わりに小さな手触りのある記録を残す──二人が一緒に折って綴じる『ポケット』を十個用意する」湊は言葉を噛みしめながら説明した。言葉にすると、重みを確認するように心が落ち着いていった。
「えーっ、十個だけで足りるの?」菜月が不満そうに言ったが、その瞳の奥には賛同の光もある。
佐伯はニヤリと笑った。「僕、端末の電波を遮る簡易装置作ってくる。駅周辺のWi-FiとLTEを弱めるやつ。自治体の承諾があっても、現実的にスキャンをさせなければ動かせない」
「それ、合法なの?」飯島が一瞬声を上げたが、佐伯はうるさそうに肩をすくめた。「合法かどうかは現場