放課後の工房で通知を切ったふたりは雨の終わりを待つ 第6話「第5章」
窓に打ちつける雨粒が、工房の鉄の庇を小刻みに叩く音を作る。蛍光灯の白い光が木の粉で曇った作業台を照らし、においはやすりと接着剤と、乾いたコーヒーの残り香が混じっていた。歩はやすりを往復させながら、指先に伝わる微かなざらつきと振動を確かめていた。湊はその横で、小さな木箱の蓋に薄い朱色の線を描く。二人の指先が同じ木目に触れると、ちいさな熱が指先の間に流れた――いつもの合図だ。
窓に打ちつける雨粒が、工房の鉄の庇を小刻みに叩く音を作る。蛍光灯の白い光が木の粉で曇った作業台を照らし、においはやすりと接着剤と、乾いたコーヒーの残り香が混じっていた。歩はやすりを往復させながら、指先に伝わる微かなざらつきと振動を確かめていた。湊はその横で、小さな木箱の蓋に薄い朱色の線を描く。二人の指先が同じ木目に触れると、ちいさな熱が指先の間に流れた――いつもの合図だ。
「……こっち、もう少しだけ丸みを残した方がいいと思う」湊が言う。声は低く、雨を境に外の世界から遮断されたこの空間を静かに支配していた。
歩はやすりを止め、湊の手元を覗き込む。木箱の中は空洞になっていて、二人で作った小さな紙片や、使い残しのビス、こっそり折った紙のボールが無造作に収まっている。そこに二人の共同制作の痕跡が積み重なっている――触れていても見えないものが、確かにあの箱の内側に貼りつくように存在していることを、二人は知っている。
「見える?」歩は尋ねる。尋ね方はいつも慎重だった。過去の失敗が、互いの線を引きすぎると痕跡が消えることを教えてくれている。
湊は一瞬息を詰めてから、小さくうなずいた。二人は同時に蓋を閉め、手のひらを重ねるように箱の上に置いた。低い振動が掌の奥で合わさり、薄い白い靄のようなものが箱の木目を滑った。歩はその瞬間、湊の思い出の端が懐かしい匂いとしてぼんやりと立ちのぼるのを感じた。湊は歩の笑い声の残像が紙片に刻まれたように感じた。
だが、痕跡は触発されたまま永遠に見えるわけではない。湊がほんの少し先走って言い切ってしまう――「つまり、歩はこう思ってるんだよね?」――その言葉が木箱にかぶせられると、靄はしゅっと剥がれるように消えた。手のひらから伝わる熱も、気だるい退色のように引いていく。
「……消えた?」歩の声が細くなる。湊の額に汗がにじんでいた。二人が共同で作るという慎重なリズムは、決めつけの一言で簡単に崩れるらしい。これは彼らが既に知っている、しかしいつも痛みを伴って確認するルールだった。
「ごめん……」湊は唇を噛む。何度も経験したのに、言葉を急ぐ癖が出る。歩はやすりを手にし直し、そっと箱をもう一度研ぎ直した。木屑が落ちる音が、雨のリズムに混ざって細かくこだまする。
そのとき、工房の入口の方から足音が近づいた。制服のスカートが濡れて、縁に雫を垂らしている。玲奈が黒板のそばで立ち止まり、指で何かを書いては消すような仕草をしていた。背後の黒板には、他のグループの作品タイトルとともに、「人気投票ランキング」と緩やかな筆跡で見出しが書かれている。そこに、いつのまにか歩と湊の名前が上位に移動しているのを、歩はちらりと見た。
「見て見て、噂になってるよ?」玲奈は少しからかうように言いながらも、目の奥に複雑な色をはらませていた。「文化委員が、展示に人気投票入れたいって。推薦枠も絡んでるみたいで、上に行けば進路にもいいって話……」
歩の胸に、冷たいものが落ちる。公開のランク付け。評価が数字になって、彼らの関係が話題性として消費されていくこと――それが怖かった。工房での制作は二人のための時間だった。携帯の通知を切ったのも、外の雑音を断つためだったのだ。
「やらせない方がいいよ。展示場であれがどう扱われるか、想像つく」歩は低く言う。しかし玲奈は肩をすくめる。
「私だってそう思うよ。でも、これが無視できない事情なの。父が教育委員会の関係で、今年の成績やら実績やらで学校が注目されるって。文化祭での成果が自治体の評価になるから、先生も委員も必死なの。私だって、自分のやりたいことあるし」玲奈の声は少し震えた。いたずらに面白がっているわけではないということが伝わる。その震えが、彼女もまたシステムの中で選択を強いられていることを示していた。
湊はふと箱に手を戻し、床に落ちた木屑を指で集める。指先に残るざらつきが、先ほどの熱を思い出させ、胸の奥に小さな穴を作るような気分を呼んだ。
「もし展示するなら、触れる人が入れた“痕跡”で勝負するんだって?」湊は問い返す。能力で確かめたいという欲求が、言葉に滲む。「直接、誰かの本音を読むわけじゃなくて、作品に残るものだけを――でも、それって露出することにならないかな」
玲奈は小さくうなずいた。「ええ。だけど、その“誰か”っていうのが公衆の手になると、本来の意味が薄くなると思う。あなた達のやり方は、ただの展示物にされたら価値がねじ曲げられる」
歩は手を止め、箱を両手で抱えるようにした。共同制作に残る痕跡は、彼らだけのものだから尊い。だが外に出れば評価軸が付けられ、勝ち負けにされる。二人の間で築いた曖昧さが、数字に変えられる恐怖。
「だとしたら、どうする? 出さない?」湊が言う。問いかけは柔らかく、しかし目は真剣だ。湊の胸にはもう一つ別の動機があることを、歩は見逃していなかった。湊は能力に頼って安心したい――それが湊の恐れであり、許されるとも言えない欲望だ。
「俺は……」歩は言葉を探す。「俺は、展示に出すかどうかより、誰かが勝手に読んで終わる関係にはしたくない。けど、隠すことが君を守るとは限らない」
湊は急に顔を俯け、指の節を噛むようにして黙った。歩は息を飲んだ。二人の間に流れるものは、ただの好意ではなくて、選択を奪われたくないという意思のぶつかり合いだった。
そのとき、箱の縁が薄い音を立てて裂けた。二人が顔を上げると、木の繊維がほつれて小さな裂け目ができている。先ほど決めつけた言葉の余波が、物理的に出てきたようだった。歩が指で裂け目を撫でると、そこから微かな冷たさが広がって、胸の奥がざわつく。
「急がせたかもしれない」湊は小さな声で言った。「手を急いだり、結果を確かめようとしたりすると、壊れるんだ。これ以上焦れば、二人で積んできたもの自体が崩れる」
玲奈がそっと後ろに下がり、工房の端にある古いラジオを指差した。ラジオのダイヤルは不安定に光り、体温計のように校内の空気を測っているように見える。「先生たちも、それは分かってる。だけど規則や評価の枠組みは、個人の不都合を吸い取って『正常』にする。私、そういうのに巻き込まれたくないんだ」
その言葉に、歩の指先が硬くなる。体感としての代償――痕跡が消えるだけではない。共同制作が断たれたとき、それは互いに育んできた記憶の切れ端を引きちぎるような痛みをもたらした。二人はそれを何度も味わってきたが、こうして目に見える形で現れるのは初めてだ。
沈黙の中で、工房の外の雨は少し弱くなった。窓の水玉がゆっくりと流れ、校庭の土が濡れて深い茶色になる。夕方の光が薄く差し込み、木箱の割れ目に影を落とす。
「……確かめたいって気持ちは分かるよ」歩は低く言った。「でも、確かめるってことは同時に何かを失うってことでもある。それでもいいのかって、君自身に聞きたい」
湊は目を閉じ、しばらく黙った。彼の胸の奥にある恐れは、言葉にすると簡単に消えそうで、だからこそ言葉にならないでほしいという逆説があった。だが、そのままにしておくわけにはいかない。彼らは互いを選ばねばならない瞬間にあった。
「俺は……」湊は息を吐く。「消えてほしくな