映画研究会で親友を好きになったふたりは過去の誤解を解く 第8話「第7章」
夜の校舎裏は、手持ちカメラのファインダー越しに冷たく光っていた。廊下の蛍光灯が囁くようにちらつき、窓ガラスに映った自分の顔が何度も揺れ返る。航(わたる)は息を吐いて、ファインダーに指をかけたまま靴先をずらした。彼の右手は微かに震え、肩越しのストラップが擦れる音だけが静かに聞こえる。
夜の校舎裏は、手持ちカメラのファインダー越しに冷たく光っていた。廊下の蛍光灯が囁くようにちらつき、窓ガラスに映った自分の顔が何度も揺れ返る。航(わたる)は息を吐いて、ファインダーに指をかけたまま靴先をずらした。彼の右手は微かに震え、肩越しのストラップが擦れる音だけが静かに聞こえる。
「ここでやるんだな」
背後から声がして、華(はな)が腰にぶら下げた小型のラベリアマイクを差し出した。彼女の声はいつもより細く、しかし確かな輪郭を持っていた。凪(なぎ)は三歩下がって、校舎の影に溶けるように立っている。彼女の表情は薄く、じっと浮かんだままだった。
「ひとりで済ませようって言ったのは航だ」と華は淡々と言った。肩越しに航を睨むわけでもなく、ただ事実を置いた。航の頬が膨らんだ。怒りと焦りが混ざった空気が、シャッター音のように乾いて鳴った。
「決めつけるなって言ったのも、俺だ。凪に、何かを言わせるための演技はさせたくない」
凪の瞳に小さな光が宿る。彼女は口を開きかけて、やめた。微かな息の切れが、夜風に混じって消えた。
航はファインダーを覗き直し、RECランプに指を当てた。赤が柔らかく点滅する。彼の手の甲に、先週の怒りの痕が残っていた。市原(いちはら)と真山(まやま)が撮ってくれたデモ映像を、自分で編集し直した時の。映像は切り貼りされ、あの日の凪の声はあるはずなのに、再生するとところどころ白いノイズに置き換わっていた。彼はそれを、能力の「効かない部分」の現れだと感じていた。
「やるよ」と航は短く言った。言葉に力を込めすぎると、すぐに見透かされるかのように思えたからだ。華は小さく息を吸ってから、無造作にうなずいた。
「始めて」
凪がゆっくり歩み寄る。膝にまとわりつくスカートの生地が、懐かしい布の匂いを放った。彼女の口元がわずかに震えて、言葉を探す。航は彼女の手首を軽く掴み、目線を合わせる。彼の顎は固く、焦りの塊みたいに見えた。
「解るだろ、凪。真実を。言ってくれ」
航の声に命令の端があった。凪はまばたきして、喉を鳴らす。彼女の唇が震え、ある言葉が口をついて出た──はずだった。収録中、華は音声レベルの針を見つめていた。針は細かく動いて、安定した。ファインダーには、凪の指先が震える様子まで繊細に映っている。
再生ボタンを押したとき、画面は薄い霧のようなノイズで満たされた。凪の口は動いている。だが声が、出力されない。マイクの位置を確かめると、ちゃんと風切り音を拾っている。凪が笑った瞬間、その笑いも白いノイズに変わった。ファイルの一箇所だけに現れる暗い穴。航の胸が、そこで冷たくへこんだ。
「……なんでだよ」
声が小さく震えた。華が彼の肩を掴んだ。手の温度が意外に暖かく、航は一瞬自分が救われるかもしれない錯覚に囚われた。
「決めてる。予定を与えてる。そういうときに、痕跡は見えなくなる」
華の口調は平板だが、その言葉は重かった。二人で共同して作るものにだけ、誰かの気持ちの痕跡が残るという——そのルールを、彼女はいつも肌身で守ろうとしてきた。けれど、ここは「共同」なのか。航の胸にある「真実を示したい」衝動が、凪に「言わせる」ことになってしまっている。作業の主体がすでに決められているとき、共同制作は脆く、透明になる。
「俺は……彼女を守りたいだけで」航は言葉をせき止める。言い訳が自分の手を濁らせるのを、彼は知っていた。
「守るのは大事。でも、守る名目で他人の意思を奪ったら守っていることにはならない」と華は静かに返した。「痕跡は残る。けど、それは相手が自分で選んだときだけ。決められた答えを出させてしまったら、その答えは――」彼女は言葉を切って、カメラの前で手をひらりと横に切った。「消える」
その言葉が残る前に、校舎の向こうから物音がした。市原と真山が駆けてきて、二人に息を切らして顔を寄せる。市原の手には、プリントされた紙の束。真山はスマホを握りしめ、誰かに叱るような目を向けた。
「SNSで広がってる。本校の掲示板にも転載されてる。だけど、運営のアカウントが改竄されてる形跡がある。第三者じゃない、内部だよ」
真山の声は冷たく、背中の筋肉が硬直する。華の顔色が一瞬変わった。掲示板──学校という制度が、恋愛を評価して消費している。噂は個人の悪意だけではなく、組織的な流通経路を持ってしまった。
「それ、止めるにはどうしたらいい?」航は訊いた。現実に向き合う時間は、もう待ってくれない。
「放送権を一時凍結できる担当に会ってくる」と市原は言った。「けど時間がかかる。だからその間に俺たちがやることがある」
市原は紙の束を押し付けるように航の前に差し出した。上には「呼びかけ人募集──映画上映会」とだけタイプされている。夜間、部室で即席の上映会を開く。映すのはただの映像ではない。みんなで短いフィルムをその場で作り、そこで発言することで「共同」を作り出そうというアイデアだった。
「大勢で作る。色んな人の指が触れるものを残す。噂に消されない実体をつくるんだ」と真山が続けた。「誰かが勝手に決めた『真実』より、当事者が自分で語る空間を作る」
華は航の顔を見て、ゆっくりと笑った。笑顔というより、緊張の解けた筋肉が戻っただけのようなものだった。
「きみはひとりで急いだ。焦りのせいで、共同じゃない形にしてしまった。でも今なら間に合う。私たちがつくればいい」
航はカメラを抱きしめるように胸に当てた。ファインダーの黒い縁が瞼に残る。自分が何を見ようとしていたか、どれほど強引だったか──冷静になるにつれて、胸の奥で小さく痛みが広がった。
「……分かった。やろう」
そのとき、凪がぽつりと言った。「私、自分の言葉を取り戻したい。誰かに決められるのは嫌だ」
凪の声は小さかったが、確かだった。航はその言葉に踊らされるように立ち上がる。鈍い胸の痛みが、たしかに薄れるように感じられた。共同で作る可能性が戻ってきた瞬間だった。
だが、その希望の背後で、もう一つの動きが進んでいた。校内の掲示板を改竄していた痕跡は、思ったより深刻だった。真山が画面を見せると、ログには「管理者の権限を用いた書き込み」が残っていた。内部──つまり、学校運営側で噂を野放しにするか、あるいは拡散に協力している誰かがいる。制度そのものが、恋愛を評価に変換する仕組みを抱えている。
「学生課に訴えるだけじゃ足りないかもしれない」と市原が言った。「外部に訴えるか、上映という形で『ここで語る』ことを示さないと、制度の方に押し流される」
航は夜空を見上げる。校舎のガラスに、街灯が細長く反射している。街の雑音が遠く、手持ちのカメラで拾った断片のように交差する。彼の背中に、孤独が冷たく食い込む。彼は一人で何かを完結させようとして、結果的に凪の声を失わせた。仲間が動いたことで、一つの道筋が開いたが、同時に制度との対決が必要であることも明らかになった。
「上映会、今夜だ」と華が言った。声は低いが決意に満ちている。「手持ちのカメラでもスマホでもいい。みんなで撮って、編集もその場でやる。共同制作にするんだ」
「俺、編集できる。簡単なのならすぐに」と航は返し