映画研究会で親友を好きになったふたりは過去の誤解を解く 第26話「第24章」
映写室の空気は、いつもより重かった。天井から垂れた蛍光灯は一つだけ点いていて、薄暗がりの中で古い映写機の金属が青白く光る。油の匂いと紙のヤケた匂い、そしてフィルムの独特な甘い匂いが、胸の奥にある記憶を撫でるように漂っていた。
映写室の空気は、いつもより重かった。天井から垂れた蛍光灯は一つだけ点いていて、薄暗がりの中で古い映写機の金属が青白く光る。油の匂いと紙のヤケた匂い、そしてフィルムの独特な甘い匂いが、胸の奥にある記憶を撫でるように漂っていた。
「ここまで裂けてるか……」青井海斗は、机の上に広げられた16ミリの断片を指で転がした。指先に伝わるフィルムの温度は、人肌に近く、薄く指紋の跡が残る。断片の端には、誰かがかすれた鉛筆で書いたメモの切れ端が貼られていた。そこに、三浦優の文字があった。
「最後まで見てくれる?」
──小さく、丸い字。優が残したらしい短い問いかけ。
海斗は息をのんだ。指先にピリリとした冷たさが走る。能力が疼く瞬間だ。二人でつくったものにだけ、誰かの気持ちの痕跡が残る。だがそれは、見る者が勝手に決めつけると消える脆い光で、急いでつくれば、共同制作そのものが壊れてしまう。
「どうする?」横に立っている山本明里が、針のように硬い声で訊いた。彼女の手は震えていたが、動きは丁寧だった。明里はフィルムの端を指に挟み、古いスプライサーの金属部分をゆっくり合わせた。
「急がない。今回は急がないでやる」海斗は、声を低くした。頭の奥で、以前決めつけてしまったときの痛みがまだ残っている。あのとき海斗は、優のある一瞬を「告白」だと断定した。断定した瞬間、映像の色が抜け落ち、海斗の能力は痛みとともに喪失した。代償は、身体的な痛みだけではなく、共同作業の信頼を壊すものだった。
部屋の扉が突然開き、倉田が入ってきた。生徒会の人間らしく、胸にはいつも通りの冷たい笑みがあった。彼は書類を手に、俯いた二人を見下ろした。
「文化祭の最終確認の提出期限は明日の正午。映研には提出物の質が求められるから。噂になるようなものが欲しいんだよね、部長さんも分かってるだろう?」倉田の視線は、評価と数字で人を量る慣れたものだった。彼の言葉には、関係を消費する空気が混じっている。
「噂にするんじゃない、上映するんだ」中島奈央が倉田の後ろから答えた。奈央はいつも、場の空気を読むのが得意だったが、今は顔が赤く、彼女の選択が葛藤の結果だと見て取れた。文化祭の評価で自分の大学推薦の話が動く。彼女が何を選ぶかは、すでに制度の手の中にある。
「時間がないんだ。注目を集めるために編集で煽ればいい。旧作の断片をつなぎ替えて、ラストに衝撃を入れる。そしたら票は集まる」倉田は続けざまに答えを出す。商品化する口調だ。彼の提案は、関係を噂にして売ることに他ならない。
海斗は手を止め、フィルムの上の小さなメモを見つめた。優の文字だ。そこに「最後まで見てくれる?」とあった。決めつけられることを恐れている――その短い言葉が、海斗にはそう聞こえた。決めつけられること、それが優を遠ざけたのではないか。そう思うと、倉田の言う「衝撃」は逆効果に思えた。
「煽るのはやめましょう」明里の声が硬くなる。「これを――優が最後まで見てほしいって言ったものを、勝手に脚色するのは違う」
倉田は鼻で笑った。「理想論だね。だが現実は数字だ。大学も、推薦も、部活の予算も。噂で食うのは、見返りがある」
その瞬間、海斗の中で何かがせり上がった。制度の冷たさは、個人の選択を奪う。優の痕跡は、誰かの数字のために消費される言い訳にされかけている。海斗はゆっくりと頭を振った。
「じゃあ、試す。急がないで、やり方を変える。僕たちで一つだけ、新しい短い映像をつくる。三人で、手を添えて。優の痕跡が残るのは、共同でつくったものだけだろう? だったら――」海斗は言葉を切った。彼の手はメモをそっと撫でた。掌に伝わる紙の凹みが、過去の重みを伝える。
「三人で?」奈央が表情を変えた。「優を誘うの? でも彼女、あんまり外に出たがらないよ」
「それでも、直接かどうかだ」明里が答えた。「誰かの判断で彼女の気持ちを切り取るより、本人と一緒につくる。急がないで、最後まで見てくれるかどうかを確かめるんだ」
倉田は軽く肩をすくめた。「面白くなりそうだな。だが時間はない。君たち二人でやるなら、僕は別に止めないよ。だが評価はどうにもならない」
倉田は去った。残されたのは、冷えた空気と、微かに踊るフィルムの匂いだった。二人だけではない。奈央は手を顎に当て、短く息を吐いた。「私も手伝う。けど、つくるならちゃんとやる。煽りじゃなくて、その人が笑うか泣くかを見たい」
三人は無言で頷いた。共同制作の約束がそこに生まれる。海斗は、能力の発動方法を改めて確かめた。相手と同じリズムで、同じ瞬間に手を動かすこと。相手の呼吸を感じ、相手を決めつける言葉を口にしないこと。その上でしか、痕跡は残らない。
彼らは工具箱を開け、スプライサーを掃除し、フィルムの端に新しいリーダーをつけ始めた。時計の秒針がカチカチと進む中、三人の指先が同じフレームに触れた瞬間、海斗の視界に淡い色の波紋が広がった。そこに、優の笑い声のような残響が混ざる。断片的で、確かなものだった。けれど、それを説明しようとすると、波紋は消えてしまう。海斗は言葉を飲み込み、ただ手の感触を確かめた――明里の掌の温かさ、奈央の指先の汗。
「見えた?」明里が耳元で囁く。二人とも海斗の顔を見ている。
「……小さな声。あと、チケットの切れ端。書いてある字がね」海斗はゆっくりと断片を引き寄せ、フィルムの端に貼られたもう一枚の紙を剥がした。そこには、文化祭の上映券の半分と、男の字で「来てくれるか?」と走り書きがあった。宛名はない。しかしインクのにじみ方に、優がその紙をしわくちゃにして握っていたことが伝わる。
「誰か、会いに来たのかな」奈央がつぶやいた。
「それが誰かを決めつけると痕跡は消える」海斗は制止した。「でも、僕たちが三人でつくれば、優の残した『最後まで見てくれる?』の答えを、優自身の声で聞けるかもしれない。決めつけずに、最後まで一緒に見るってことなんだ」
明里は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。外では、文化祭の準備のざわめきが届く。制度は急かしてくる。人々は評価を気にして、関係を切り売りしてしまうかもしれない。だが、彼女たちは自分たちの節度を守ろうとする覚悟を、指先に込めた。
「じゃあ、どうやって誘う?」奈央が訊いた。「優を。ただ誘えば来るかな。来ない可能性もある」
「来てもらうしかない」海斗は手のひらでフィルムを包むように持った。優に会い、作ることを頼む――その選択は簡単ではない。優が拒めば、また別の苦しみが生まれる。だが決めつける代わりに、彼女に選ばせること。これが今までと違うところだ。
「明日、放課後に図書室の前で待ってるって、言いに行こう」明里が決めるように言った。「でも急かさない。彼女が来るかどうかは、彼女の選択に任せる。僕たちはただ、来てくれたら一緒につくるって伝える。それだけ」
海斗はその言葉を飲み込み、フィルムの断片の上でそっと拳を握った。能力は、相手の選択を奪うことを許さない。痕跡が残るのは、三人が同じリズムで作業し、同じ瞬間を共有したときだけだ。決めつければ、見えなくなる。急げば、フィルムは裂ける。
ドアの外で、誰かがふわりと笑った。小さな足音