楽器店で交換留学生は誰にも言えない失敗を分け合う 第19話「第17章」
舞台裏にはロージンと古い木の匂いが混ざっていた。蛍光灯の白が楽屋の狭さをつつみ、足元の段ボール箱からはパンフレットの紙の擦れる音が聞こえる。リオは掌に載せた小さなギターの胴を、どうしようもなく撫でていた。山吹楽器店から運んできた試作品だ。薄く研磨された表面は指の圧で温かくなり、そこに触れているだけでこみ上げるものがある――それが彼の能力の、最初の兆候だった。
舞台裏にはロージンと古い木の匂いが混ざっていた。蛍光灯の白が楽屋の狭さをつつみ、足元の段ボール箱からはパンフレットの紙の擦れる音が聞こえる。リオは掌に載せた小さなギターの胴を、どうしようもなく撫でていた。山吹楽器店から運んできた試作品だ。薄く研磨された表面は指の圧で温かくなり、そこに触れているだけでこみ上げるものがある――それが彼の能力の、最初の兆候だった。
「深呼吸して。舞台上では時間がもっと速く感じるから」背後で声がした。瀬川真奈が、白いメモ帳を折りたたむ仕草を止めて振り向く。黒いジャケットの襟元に小さな汗が光る。真奈は共同制作の相手として、最も頼りになる存在だ。ただし、彼女もまた自分の失敗を人に明かしたくないから、共同制作に踏み込んだ――それがこのプロジェクトの出発点だった。
「うん」リオは短く返す。自分がここにいる意味を繰り返す。誰にも言えない失敗を、二人で作るものの痕跡に分け合う。それで誰かが自由になれるなら、どれほど簡単に見えるだろう。だけど、簡単に進むほど脆いのがこの仕組みだと彼は知っている。
舞台袖のカーテンの向こうでは、市の公開討論会が進行している。壇上には三人のパネリスト、メディア用のカメラ、そして緊張した市長の顔。拍手が一度起き、遠くから聞こえる拍手に合わせて舞台のライトが消えかけ、幕間の静けさが刃のように降りてきた。
「片桐さん、準備はいいですか?」山吹公平(やまぶき こうへい)がリオに声をかける。山吹は店主で、今回のデモ用に楽器の木材加工と最終組立を請け負った人物だ。彼の指先には薄い絆創膏が貼ってあり、そこに付いた油と木屑のにおいが切実だった。
「ええ、大丈夫です」市の代表、片桐理香が言う。スーツに身を包んだ彼女の手は冷たかった。討論では「規制の必要性」を説く側に座るはずの人間でありながら、デモのために壇上へ上がる許可を出したのは彼女自身だった。理香は試験運用の透明性を証明し、手続きに問題がないことを示したかったのだ――しかし彼女のまなざしには迷いが潜んでいる。
「じゃあ順を追って行こう」山吹が言い、リオにギターを差し出す。胴の木目が光を掬う。共同制作の儀式はいつもこうだ。二人が同じ箇所に手を置き、同じフレーズを弾く。その瞬間にだけ、物は二人の感情の痕跡を受け取って震え、外側からはわからない痕跡の帯を残す。痕跡は見えたり消えたりするものではない。だが条件がある。決めつけたり強引に読み取ろうとするほど、痕跡は薄れる。そして急ぐほど、共同制作の構造そのものが壊れる。
リオは片桐と向かい合った。彼女の呼吸は浅く、肩が小刻みに震える。理香は公式な立場と個人的な不安、それにこの場で自分が果たすべき責任を秤にかけている。リオはそれを覗き見たい衝動に駆られる。彼女の判断を見極めれば、公開討論がこちらに有利に動くかもしれない。しかし、その「見極め」は禁忌を犯す行為だ。
「行くよ」真奈がリオの手にそっと触れる。指先はギターの薄い輪郭を踏むだけで、温度が伝わる。二人の手が木に触れたとき、かすかな共鳴が生まれた。楽器の内部で微かな振動が波打ち、色味が変わったように見える。これが痕跡の初動だ。だが痕跡は具体的な言葉を教えない。感情のしるし、強さと輪郭、誰が何を抱えているかのヒントを与えるだけだ。
リオは慎重に、だが意識的に目を細めて理香の表情を読もうとした。彼女の頬の筋が一瞬緩んだのを見逃さなかった。「もしかして……」頭の中で言葉が生まれかける。だがその瞬間、痕跡がぐらりと揺れた。真奈の手に伝わる振動が、濁る。
「リオ、力を抜いて」真奈が低く言う。だがリオの心臓は速く、どうしても先を急いでしまう。これまで何度も、答えを焦ったことがあった。早く結論を出したい、誰かを楽にしたいという思いが、判断を鈍らせる。
彼が思考を決めつけに持っていった瞬間、楽器の表面を走る一筋のひびが、ぴりりと音を立てた。木の髄から小さな断裂が広がり、指の腹に鋭い痛みが走る。真奈が呻(うめ)いた。山吹が慌てて手を伸ばすが、裂けた場所からは細かな木屑が舞い、誰かが見ている空間でそれが飛び散るのは耐え難い違和感だった。
「まずい」山吹が吐き捨てるように言う。舞台袖の明かりが一瞬乱反射し、舞台の歓声が遠くで途切れる。理香の眉がぴくりと動き、そこには計り知れない驚きと恐怖が混じっていた。
裂けることで露出したのは単なる材の不具合だけではない。共同制作が壊れたとき、規則は逆に働く。共同で作る行為は、作り手の失敗や弱さを「分割」して痕跡に収めるはずだった。だが破綻が生じると、その分割は解かれ、双方に同じ形で「失敗」が還元される。真奈の目が遠くなり、リオの胸に冷たい鉛が沈み込む。彼は頭の奥で真奈のある記憶の断片が押しつぶされるのを感じた――それは彼女が高校三年生の頃にした、小さな約束の裏切りだった。真奈は顔を伏せ、こらえきれない声で笑ったような声を漏らした。
「私、……やっぱり無理かも」真奈の言葉は小さく、しかし鋭く刺さった。彼女は手を引き、楽器から離れた。腕に力が入らない。
「ごめん、真奈!」リオは自分の失敗を抑えきれずに叫んだ。声が大きすぎたのか、舞台の客席でざわめきが起きる。カメラのレンズがこちらに向けられるのがわかった。記者のフラッシュが遠くで光る。
山吹が素早くギターを抱え込み、裂け目を塞ごうとする。職人の手は震えていたが動きは確かだ。しかし裂けた木は音の共鳴を変えていた。理香は表情を固くして、メモを取り出す。彼女の手は以前より確実に震えている。
「これはどういうことだ? 安全性は?」舞台上の市長の声が割り込む。討論会の司会が慌てて駆け寄り、舞台の空気が緊張で満たされた。
リオの喉が急に痛くなった。吐き気がする。共同制作を壊した代償は内面にも波及する。彼は能力の代償を肉体的に感じる初めての経験だった。声が掠(かす)れて出ない。真奈と同じ心の古傷が、まるで体温を奪うように彼を冷たく覆った。
「これ、デモの許可は取り消させてもらいます!」片桐は声を張った。彼女は震える指先で、胸ポケットから小さな書類を引き出した。そこには法務課の赤い判が押されている。会場の空気が一層重くなる。
そのとき、控え室の隅でべたつく足音が近づいた。遠藤圭(えんどう けい)が息を切らして入ってきた。学生自治会の代表であり、今回の運動の策士だ。彼は紙束を握りしめ、顔色が青ざめていた。
「写真を見つけた、舞台の上にある……いや、違うんです」遠藤は言葉を噛み砕くようにして話し始める。「デモ楽器のいくつかの部分に、外部と通信する微小なセンサーが仕込まれている。製作履歴と接触ログを自動で送るタイプのものだ。設計図にそんなものはないはずだ。誰かが裏から介入している」
その言葉に、部屋が一瞬凍る。山吹が顔をこわばらせる。彼は自分の手で作った木にそんな仕込みを施す理由がわからない。理香は言葉を失い、眉間に線が寄った。
「つまり、使用者の合意や痕跡が外部へ流出する可能性があると?」片桐が言う。彼女の声は震えても論点を冷静に押さえていた。これは、制度側が危惧してきたプライバシー侵害の懸念そのものだ。だがリオは違うことを感じてい