楽器店で交換留学生は誰にも言えない失敗を分け合う

楽器店で交換留学生は誰にも言えない失敗を分け合う 第1話「序章」

夕暮れが通りの角をぬっていく。街路樹の葉が硝子の面に黒い波紋を描き、楽器店のショーウィンドウは二重の世界をつくっていた。内側には古いヴァイオリンや色あせた譜面、灰色の木箱が並び、外側には通りのネオンサインと、スマートフォンを覗き込む若者たちの顔が重なっている。窓の左端に、白い紙で埋まった掲示板がある。見出しは大きく「失敗ランキング」。コンテストで落ちた者、恋を言えなかった者、卒業式に遅刻した者――短い言葉と匿名の星の数が、夜の灯りの中で不穏に揺れていた。

夕暮れが通りの角をぬっていく。街路樹の葉が硝子の面に黒い波紋を描き、楽器店のショーウィンドウは二重の世界をつくっていた。内側には古いヴァイオリンや色あせた譜面、灰色の木箱が並び、外側には通りのネオンサインと、スマートフォンを覗き込む若者たちの顔が重なっている。窓の左端に、白い紙で埋まった掲示板がある。見出しは大きく「失敗ランキング」。コンテストで落ちた者、恋を言えなかった者、卒業式に遅刻した者――短い言葉と匿名の星の数が、夜の灯りの中で不穏に揺れていた。

リオはその前で立ち止まった。交換留学生のバッグは肩に食い込み、冬用のコートはまだ薄くて冷たい。掌の中で、小さな紙片をぎゅっと握っている。紙には彼女の名前ではなく、誰にも言えないこと――昨年、ホームタウンの大会で指名手配のように晒された失敗の一行が書かれていた。吐き出すように読めない。だから彼女はここに来たのだ。言葉にしないで分け合える方法が、本当にあるか確かめたくて。

「見かけない顔だねぇ、旅人さん。」

古い木枠の扉がぎいと音をたて、店主が丸眼鏡をのぞかせて出てきた。白髪混じりの短髪、手の先はいつもロジンの匂いを纏っている。リオは一歩引いて会釈をした。声が小さく、でも確かに訛りのない日本語だった。

「楽器を…見せてください。少し、触ってもいいですか」

「触るだけならな。売り物を壊すなら弁償してもらうが――まあ、夕方だし。こっちだよ。」

店主はゆっくりと窓の中へ手を伸ばし、埃をはらってから奥の古いヴァイオリンを取り出した。表板に深い割れ目があり、ニスは剥げ、あちこちに張り替えた跡がある。けれどその凹凸が光を受け、木目が宝石のように浮かんでいた。

リオは躊躇なく差し出されたヴァイオリンを抱えた。抱き心地はずしりとして、温かさも、冷たさもない。ただ、棘のような感覚が指先に走る。指先の皮膚が微かに光るような錯覚。触れた瞬間、視界の片隅に短い映像が差し込んだ――暗い練習室、椅子に座る少女。弓を握る手が震え、肩越しに薄い紙が落ちる。紙の上には彼女の名前と「不合格」の印が押されている。少女は嗚咽を押し殺しながら、楽器を抱きしめていた。

「見えた?」

店主の問いに、リオは小さく頷く。像は再生されるように続き、少女の隣にもう一つの手が映る。ある年配の男性か、同年代の誰かか、それははっきりしなかった。二本の手が同じ弓を包み、修理のように糊を塗り合う。そのとき、木の割れ目に淡い光の糸が走った。ふたつの痕跡が重なって、何かができあがる――それが「痕跡」だと、リオは直感した。

「これは――誰かと一緒に作ったか、直したかしたモノにだけ残るものだよ。単なる所持や接触では出てこない。」

店主は穏やかに説明した。だがその口調は訓戒のようでもあり、経験者のそれでもあった。リオは呼吸が浅くなるのを感じた。ここに来る前に読んだ噂の断片、都市伝説ぽい話が脳裏をよぎる。人の本音を覗ける能力者というより、共同作業の痕跡を映す鏡か――そんな曖昧さが彼女の背筋に冷たく触れた。

リオは試すように、映像の続きを見ようと心を決めた。少女の表情を「不合格の恥だ」と断言すれば、その先をはっきり見られるのではないか。頭の中で結論をひとつに固めると、像は途端に薄れていった。光の糸は切れ、少女の顔は霧散し、木の匂いだけが残った。指先の熱は引いて、代わりに爪の先がしびれるような痛みが走った。

「決めつけると、見えなくなるんだよ。」

店主の言葉が冷たく響いた。「勝手に意味を当てはめると、痕跡は閉じる。共同の痕跡は、相手の余白を残すことで保たれる。確定させるほど、痕は身を引く。急いで作れば作るほど、そのものは壊れやすくなる。」

リオは自分の胸を押さえた。言葉にした途端、胸の奥がキリッと痛んだ。彼女の失敗は――友人との約束を破り、舞台に穴を開けたこと。父の期待を砕いたこと。噂はもう村中に回っている。誰にも言えなかった。自分だけの失敗を分け合うとはどういうことか、彼女はまだ言語化できないでいた。ただ、ここで見た像は確かに「誰かと分け合った」痕跡だった。少女はひとりで泣いていたわけではない。誰かが横にいて、痛みを共にしていた。

「つまり、私が誰かとこれを直したら、相手の失敗の『一部』が見えるようになる?」

「そうだ。だが、注意しろ。共同で作ると言っても、ペースを合わせる必要がある。焦って相手の物語を引き出そうとすると、痕跡は自己防衛をする。さらに代償がある。急ぎすぎれば、物が壊れるだけじゃない。共同した側の記憶に穴が開くこともある。」

その瞬間、リオは過去の一場面を思い出した。言葉に出さずにすれ違った瞬間、相手の顔が、彼女の中からいきなり消えた。あれは気のせいだと思っていたけれど、店主が言った「記憶に穴が開く」という言葉が、それに名をつけた。口にすると、胃が締めつけられる。誰かの痛みを共有する代償が、自分の記憶を削るのだとしたら――それは怖い。だけどここに来た理由は、怖さよりも切実だった。自分の失敗を抱え続ける代わりに、誰かと少しずつ分け合えたら、という希望。

店主はショーウィンドウの掲示板を指さした。スマホの画面のように光る星印。そこに書かれた「評価」は、失敗を消費している。顔がよく見えない匿名の筆跡が、人の一部を切り取って品評している。リオは手の中の紙片を見つめた。ここに張り出されたものは、共同で作られた痕跡ではない。誰かが勝手に切り取って、晒しているだけだ。

「この町じゃ、失敗は見せ物だろう。点数とコメントでね。だが、本当に共有するっていうのは、自分の一部を誰かに預けることだ。預けるか、売るか――その差は大きい。」

リオは軽く息を吐いた。外の冷気が喉を刺した。店主の言葉は、彼女の内側に別の問いを投げ込んだ。自分は今、誰に何を預けたくてここに来たのだろう。父や故郷に晒された評価をただなぞるのか。それとも、本当の相手を見つけて、失敗の一部を分け合うことで前に進むのか。

「もし、本当に分け合いたいなら――試してみるかい。小さな修理でいい。まずは二人で糊を塗るところからだ。だけど覚えておいて。急ぐな。決めつけるな。相手を選べ。相手も同意すること。それが最低条件だよ。」

扉の向こうで、若い声が笑った。店の奥から出てきたのは、紺色の作業着を着た女の子だった。肩に楽譜を抱え、頬には掲示板の星印のような一つのバッジがついている。短く切った髪と、くっきりした目。彼女はリオを見て一瞬表情を固めた。

「先輩、もう閉める時間ですよ。って、あれ、見送り?」

店主が女の子を紹介するように言った。女の子はリオの握るヴァイオリンをちらりと見て、そして掲示板に視線をやった。目の奥で何かがはじける。

リオは一度、深く息を吸った。選ぶのは自分だ。誰かと共同で作るか、それとも掲示板に自分の紙を投げ込むか。目の前には、共同作業を教える古い店主と、さりげなく掲示板の星印を身に着けた女の子がいる。リオは紙片をポケットに押し込み、声を出した。

「一緒に直してもいいですか。二人で、少しだけ。」

女の子はまっすぐに頷いた。店主はにやりと笑い、棚から細い布とボトルを取り出した。窓に反射する外のネオンサイン