パン屋の二階で演技が苦手な役者は卒業までに仲直りする 第5話「第4章」
二階の窓は朝の光を薄く濾して、木のテーブルに斑(まだら)を作っていた。パン屋の匂いが階段を登ってきて、温度とともに身体をほどく。テーブルの上には、昨日売れ残った角食の小さな切れ端と、誰かが置いていった古いリネン袋、インクのにじんだ紙ナプキン。そこに三つの手が集まる。
二階の窓は朝の光を薄く濾して、木のテーブルに斑(まだら)を作っていた。パン屋の匂いが階段を登ってきて、温度とともに身体をほどく。テーブルの上には、昨日売れ残った角食の小さな切れ端と、誰かが置いていった古いリネン袋、インクのにじんだ紙ナプキン。そこに三つの手が集まる。
「じゃあ、本気で試してみよう」矢野海がリネン袋を広げ、端を指でつまむ。海の声はいつもより低く、軽い緊張が震えている。壁の時計がチクタクと時間を刻む音が、耳にやけに大きい。
「他にいい案ある?」小宮杏がパレットナイフの柄でテーブルを叩く。杏は美術部出身で、色のことを話させれば息が続く。今日はエプロンに粉の筋がついていて、指先が少し乾燥しているのが見えた。
佐久間悠斗はリネン袋の皺(しわ)を見つめた。自分の手のひらはまだ冷たい。ここで、ここでだけ働くひとつの「触れ方」がある。声に出すより先に、彼はその力を確かめたいという衝動に駆られていた。ただしそのやり方はいつも脆(もろ)かった——決めつけるほど痕跡が見えなくなる。焦ると共同制作が壊れる。
「悠斗、説明してよ」海が眉を寄せる。真っ直ぐな瞳が彼を貫く。
悠斗は深く息を吸ってから、簡単に言葉を選んだ。「手で共同して作ったものだけに、相手の残した痕跡が残るんだ。触った時間や一緒に混ぜた回数みたいな、曖昧なもの。でも、俺が『これはこう思ってる』って決めつけると、跡が薄くなる。急いだり、誰かに強要したりすると、作る過程自体が崩れる。」
「それ、実証しようっての?」杏が小さな笑みを浮かべる。「理屈はわかったから、サンプル作るよ。模造品で練習しようよ、悠斗がどう反応するか見るの。」
海は首を振る。「それじゃだめだよ。問題は紗良(さくら)に使えるかどうか。悠斗が彼女と直接作らないと意味がない。それに――」海は言葉を切って、窓の外の校庭を見た。「直接聞くってのも手だと思う。噂や評価に消費される前に。言葉で会えば、楽になるかもしれない。」
杏は眉を上げた。「でも海、それは彼女に圧力をかけることになる。悠斗が『本当の気持ちを見せて』って強いるような形になったら、痕跡は消えるよ。共同制作は、自然に育てるものだって言ってるじゃない。」
三人の意見は収束しない。四角い窓の中で、校庭の桜の枝が風に揺れる。悠斗は両手をテーブルに落とした。粉が爪の先に入り込むのがわかる。パン屋の二階は小さな舞台だ。ここでしか許されないことがあるのだと、彼はいつも思う。
「じゃあ試しに——」杏が立ち上がり、棚から小さな粘土の箱を取り出した。「二人で一つの小道具を作る。悠斗と私、交互にこねて、形が決まるまで待つ。あまり説明しないで、感じたままのことだけを手から手へ渡す。痕跡が出たら、それを読む。決めつけないことが条件だよ」
悠斗は頷いた。海はまだ渋い顔をしているが、二人を止めはしなかった。台所の照明がほんの少し温かくなる。窓辺に差した光が紡ぐ影は、三人の手の動きに沿って伸び縮みする。
粘土は冷たく、でも油分が含まれていて指先にまとわりつく。杏が最初に捏(こ)ね出した。彼女の指の動きは滑らかで、空気を入れるようにして粘土を包む。悠斗はそれを受け取って、じっと観察した後に自分なりの形を足す。その時、ふっと、何かが表面に現れたような気がした。ほんの短い時間、粘土の色が少しだけ濃くなり、指紋の周りに曖昧な線が走った。
「見える?」杏が低く囁く。
悠斗は首を振った。確かに見えたような、しかし言葉にするほど鮮明ではない。力はそういうものだった。共同で触れている瞬間、相手の残響が材に滲(にじ)んでくる。それはメッセージというよりも、温度やリズムのようなものだった。
「楽しかった。ここで笑った音とか、焦った指の震えとか」杏がつぶやく。顔に小さな光が宿る。「これを読み取るのは、演技よりも難しいかもしれないね、悠斗」
悠斗は自嘲気味に笑った。「俺、演技が下手だから。つい、台本通りに感情を作ろうとする。けど痕跡は台本じゃなくて、過程に残るんだよな」
粘土の形が少しずつ人の顔のようになった。二人の息遣いと指先のリズムが合わさった瞬間、表面に溶け込むような線が出る。それを二人で見つめると、何かを共有した気分になった。
「試しに解釈してみよう」海が静かに言った。彼女は携帯を取り出し、録音の準備をしている。海の準備性は、過去に何度も彼らを救ってきた。だがその行為が、空気を少し硬くする。
悠斗は小さな恐怖を覚えた。「やめてくれ。決めつけたら消えるって言っただろ」
海は短く笑った。「でも悠斗、もしそれで紗良の気持ちがわかるなら。私たちがその場にいないっていうだけで、悠斗は一人で悩みを抱え込んでる。今、痕跡が出てるなら、ちょっとだけでも手掛かりが欲しいんじゃないの?」
杏がじっと二人を見る。黙っていたが、彼女の手は粘土の端に残っている。三人の間にさざ波が立つ。悠斗は自分の中の二つの欲求が引っ張り合っているのを感じた。知りたい。だが知るために相手を既成の枠に押し込むのは違う。
「わかった」悠斗は顎を引いた。「一度だけ、皆で感じたことを交換しよう。でも解釈は一時的に。確信めいたことは言わない。もし跡が薄くなったら、その時はやめる。俺が止めるから」
海は渋々頷いた。杏は目を輝かせた。緊張のラインが少し和らぐ。
三人は互いに目を合わせ、呼吸を合わせた。粘土に残る線を三人で観察する。誰が最初に言葉を出すかで空気が変わる。杏が小さな声で言った。「ここ、緩い笑い。あと、すこし怒りの熱がある。急いで作ったときの焦りっていうか」
海は付け足す。「それと、誰かに見られることを意識してる感じ。評価されることへの怖さ。噂にされるのが嫌だって思ってる」
悠斗はそれを聞いて胸がざわついた。紗良がそんな風に思っているとしたら――その怖さこそが、二人の間にできた溝の一つかもしれない。彼はその場で言葉を急ぎそうになった。が、杏の掌(てのひら)が彼の腕に触れて止める。
「決めつけちゃだめだよ」杏が囁いた。「それは紗良の全てじゃない。片鱗(へんりん)かもしれない。でもそれを、『彼女はこう思ってる』って一言で終わらせたら、跡は消えるよ」
悠斗は息を吐いた。そして、やってはいけないことを無意識にやってしまう弱さを自覚した。目の前の線は、紗良の何かを映しているかもしれない。けれど今はそれを持ち帰ることが大事だ。無理に答えを出すよりも、もう一度一緒に作る機会を作ることが先だ。
三人は粘土を元の塊に戻し、丁寧に蓋をした。共同で作ろうとする緊張が、皮膜のように張られる。厨房の方で、宮本さんの靴音が階段を上がってきて、軽い会釈の声が聞こえた。「おはよう。今日は学生さんたちのミーティングかい?」
「うん、ちょっと実験を」杏が手を拭いながら答える。宮本さんは笑って去って行った。足跡が階段を下るたびに、二階はまた静かになる。
「次はどうする?」海が訊ねる。彼女の顔には決断が求められている。
悠斗はリネン袋の縁を指でなぞった。その時、袋の端に何か硬いものが触れた。紙とは違う、薄いプラスチックの感触。彼は驚いて指先で引き出した。
それは、小さな切符だった。色あせ