パン屋の二階で演技が苦手な役者は卒業までに仲直りする 第23話「第21章」
朝の光が、二階の窓ガラスを通して薄く伸びていた。釜で焼いたパンの匂いがまだ一階から上がってくる。風間律は古びた木製の階段を足音を忍ばせて上がり、ドアを押し開けた。今日も稽古場は散らかったまま。段ボールの小道具、折り畳まれた衣装、そしてあちこちに置かれた椅子が雑然とした島を作っている。
朝の光が、二階の窓ガラスを通して薄く伸びていた。釜で焼いたパンの匂いがまだ一階から上がってくる。風間律は古びた木製の階段を足音を忍ばせて上がり、ドアを押し開けた。今日も稽古場は散らかったまま。段ボールの小道具、折り畳まれた衣装、そしてあちこちに置かれた椅子が雑然とした島を作っている。
「律、来てくれたか。台本、ここだ」
杉山航が机の上で紙を広げ、目を細めていた。航の声は眠そうだが、目には決意がある。高瀬紗英は窓辺の鏡の前で髪を留めていた。指先がわずかに震えている。遠藤みゆきはスマートフォンを握りしめ、スクリーンに浮かぶ匿名アカウントの画面をこわごわと見せた。
「また新しい投稿が来た」とみゆきが言う。律は画面を覗き込む。いつものように断片的な言葉が並んでいた。《優遇されてる、生徒会枠》《あの二人、裏で…》──断言ではなく、におわせるだけの文言。だが、塵のように舞う噂はすでに二階の空気を浸食していた。
「相手にしたら火に油だ」と航が言う。「無視するのがいちばん」
「でも無視できないことをしてきてる。パン屋さんにも苦情が来てるって聞いたよ」紗英の声が固まる。彼女は俯きながらも稽古用の小さなスカーフを抱いていた。それは彼女と律が共同で作った小道具だった。色褪せた青い糸が、二人が縫い合わせた場所に控えめな光を留めている。
律の指先が、そのスカーフの縫い目に触れたとき、不意に世界がざわついた。いつもなら小さな波紋──共同で形にしたものに残るはずの痕跡が、甘く、苦く、寄せては返す。でも今は違った。律はあの感覚をすぐに押し返した。力を使えば見えるだろう。紗英の、航の、みゆきの胸の中に沈む真実を拾えるかもしれない。でも彼は手を引いた。思い出す。先週、あの布を急いで確かめようとして無理に意味をはめ込んだとき、縫い目がばらけていった冷たい音を。共同作業を急げば、形が壊れるという感覚を。
「律、お願い」みゆきが言った。「今だけでいい。誰があのアカウントをやってるか。紗英さんのこと、どう思ってるか──」
律の手のひらに汗がにじむ。彼の能力は万能じゃない。二人の共同で生まれたものだけに残る痕跡は、言葉ではない。匂いの重なり、押された糸、乾いたパンのカスの位置──そうした曖昧な断片を見せるものだ。決めつけると、痕跡は霧のように逃げる。しかも、共同制作を急がせれば、そのもの自体が壊れる。律はその代償を肝に銘じていた。前に無理をしたときは、稽古場の木製の小箱が、まるで嫌がるようにひび割れ、鍵が落ちて役者の間でけんかになった。
「今は使わない」律の声は低かったが、揺るぎない。みゆきは唇を噛み、航は息を吐いた。紗英は律の目をじっと見つめた。彼女のまなざしに、安堵と、少しの失望が混じっているのがわかる。
「じゃあ、どうするんだよ」と航が言った。「無視もできない、でも証拠もない。そもそも噂は広がる一方だ」
紗英が窓の外を見た。商店街を行き交う人影が小さく見える。パン屋の二階は街にとってはただの場所の一つかもしれない。だが彼らには稽古場であり、居場所だった。そこを外圧が揺さぶっている。
律は窓辺のテーブルに置かれていたボウルを掴み、強く押し付けるように手を入れた。冷たい粘土のような感触が掌に広がる。手を動かすことで、頭のざわつきが少しずつ整理される。パン生地を捏ねるように、形を整えること。それが自分のやるべきことだと、彼は思った。
「稽古しよう」と律は言った。「感情を確かめるより、舞台を作る。私たちがやることをやるしかない」
言葉は単純だが、そこに砂のように重い決意が積もった。みんながそれぞれの持ち場に戻る。空気が切り替わるその瞬間、外からバイクの音が近づき、配達員が一階から二階へと駆け上がってきた。パン屋の店主、早川悦子が手に封筒を抱えていた。律は一瞬、胸が締め付けられるのを感じた。
「すまない、これ……」悦子が言う。彼女の手は震えていた。封筒の中身を取り出すと、それは校内の評議委員会からの通知だった。稽古使用許可の見直しを求める匿名の苦情が複数寄せられており、正式な手続きを踏むために即日報告するようにという文言。言葉は硬く、官僚的だった。しかし、その意味ははっきりしていた。二階が使えなくなるかもしれない。
空気が凍る。稽古場にいた全員の息づかいが聞こえる。くしゃりと紙を揉むような音、椅子の軋み、腕時計の秒針。律は、胸の奥にある不安が冷たく波打つのを感じた。仲直りの期限—卒業まで—は刻一刻と縮まっている。彼らには時間がない。
「撤回させる方法はあるのか?」航が訊ねる。
「あるかもしれない」と悦子は首を振った。「でも、学校側は慎重だと言ってるの。公共の場での活動に関するクレームは重い。特に“生徒の関係性”を巡る話だと、なおさら。ちゃんとした説明が必要になる」
みゆきが顔を上げた。目が決意に満ちる。「なら、説明する材料を作ればいいじゃない。私たちの舞台が何を伝えるか、誰がどう関わってるかをオープンに見せる。そのために映像も、台本も、共同制作の過程も――全部出す」
提案は一見合理的だ。だが、そこにはリスクが伴う。映像を外に出せば、噂の材料を与えてしまうかもしれない。共同制作の過程を晒せば、誰かの心の断片が指摘され、消費される危険もある。
律はスカーフに触れた。共同で作ったものは、証拠にも武器にもなり得る。だが彼は、自らの力でそれを操作することを拒んだ。自分が見る“痕跡”で人の心を決めつけることは、人の選択を奪うことに等しい。彼がここで使えば、一時の安心は得られるかもしれない。しかし、関係性は空洞になり、共同で作ったものは、ただの壊れやすい彫像になるだろう。
「全部晒すのは危ない」律が言った。「でも隠すのも違う。俺たちがどういう共同性を持っているか、僕ら自身の言葉と行動で示そう。稽古を見せる時間を作って。みんなで、ここで一晩かけて、最終小道具を作りあげる。誰かの気持ちを代弁するんじゃなくて、全員で刻む痕跡を残すんだ」
沈黙が流れた後、紗英が小さく頷いた。航は眉をひそめたが、やがて口角を上げる。「一晩ね。いい燃料になるかもな」
悦子は心配そうに周りを見回した。「でも、万が一、それでまた曲解されれば、もっと厄介よ。町の人にも説明が必要になるかも」
「わかってる」みゆきが応じた。「それでも、ここで逃げたら二階は終わる。私たちのやり方で戦うしかない」
律は深呼吸を一つして、スカーフを胸に抱えた。手の温もりが伝わる。共同制作の痕跡は、確かに彼の能力の触媒になる。だが今、彼が選ぶのは、力で決めることではなく、時間で形にすることだ。夜を徹して作業すれば、痕跡は自然と刻まれる。誰のものでもない、全員の指紋のような跡が残るだろう。
「よし、じゃあ準備だ」航が言い、皆が働き始める。木材を切る音、針が布を通る音、声を出して台詞を確かめる音。二階はいつもの雑踏を取り戻したが、今はその中に張り詰めた目的が混じっている。汗が額に伝い、夕方の光が長く差し込む。窓の外では人影が増え、街が夕暮れに沈んでいく。
稽古の合間、律はふと背後に気配を感じた。誰かが彼の肩に軽く触れた。紗英だった。彼女は小さく笑い、そして真剣