パン屋の二階で演技が苦手な役者は卒業までに仲直りする

パン屋の二階で演技が苦手な役者は卒業までに仲直りする 第21話「第19章」

窓の外で夜風が、焼きたてのパンの残り香をさらっていく。二階の部屋には、ランプの白熱球がひとつ。黄味がかった光が、散らばった道具と紙切れ、半分乾いた絵の具のパレットを間接照明のように照らしていた。床には昨日二人で折った小さな紙ボートが並び、指の跡で角が柔らかくなっている。

窓の外で夜風が、焼きたてのパンの残り香をさらっていく。二階の部屋には、ランプの白熱球がひとつ。黄味がかった光が、散らばった道具と紙切れ、半分乾いた絵の具のパレットを間接照明のように照らしていた。床には昨日二人で折った小さな紙ボートが並び、指の跡で角が柔らかくなっている。

「……ほんとうは、出られなかったんだ」

青井莉奈(あおい・りな)はテーブルに肘をつき、指先でコーヒーの輪染みをゆっくりなぞった。声は低く、震えはしない。しかし、言葉の端々に埋まっていた重さが、室内に静かに堆積していくのがわかった。

宮部海斗(みやべ・かいと)はその輪郭を見つめる。彼は何度も、彼女にどう言えばいいか考えた。謝れば済むのか。言葉の重みを彼自身が測れないことを自覚しながら、口を開くことに臆病だった。演技が苦手だと公言している彼は、演技で人を納得させられない。だから、彼は別の方法――共同制作の残像だけを読む力――に頼ってきた。

「学校の評価で、"総意"って言われたの」莉奈が続ける。「決めたのは誰か、って訊いても、みんなが手を挙げたって。だけど、その『みんな』は本当は言葉を返せる人たちじゃなかった。怖がってた。いじめられるのが嫌で、評価を飲み込んだの。私を外す決定は、そういう"安全な合意"で固められた」

海斗の胸の奥で何かが軋む。窓の外、通りの路地灯が一瞬だけ通行人のシルエットを薄く浮かび上がらせる。パン生地をこねるように、言い訳が集まっては潰れていく。

「あなたが――」莉奈は顔を上げた。瞳が零す光は、深い湖の底のようだ。「あのとき、あなたは黙っていた。私は黙っていることが決定だと信じた。たぶん私の勘違いかもしれない。でも、海斗は違う。あなたは違うと期待してしまった」

海斗は喉が渇いた。喋る前に、彼は自分の持つ術を頼りたくなった。二人で作ったものにだけ残る痕跡――それは彼にとって最後の「証拠」だった。莉奈と彼が一年前、ここで縫い合わせた小さな布の旗。舞台袖で使うための簡素なもの。ふたりで何時間も針を刺し、糸を結んだ。海斗はその布に手を置き、ゆっくりと集中した。

見る、ではなく感じる。痕跡は色や匂いではない。呼吸の癖、言葉の端、手の震えの伴う決意。海斗はそれを拾おうとした瞬間、胸の奥で警鐘が鳴った。彼が「こうだ」と決めつけると、触れようとした痕跡が薄れていく。自分の思った通りの物語に合わせてしまうことが、痕跡を曖昧にするのだ。

「怒ってる?」海斗の声は小さく、それでも真剣だった。

布の表面に、彼の脳裏に浮かんだ像が重なった。莉奈の眉の角度、糸を引く指のいつもの強さ、吐く息の短さ。だが、彼がその像を「怒り」と名付けた瞬間、像は潮が引くみたいに薄くなる。布に残っていた温度の輪郭が、消えた。

「見えない?」莉奈が訊いた。

「見える。だけど――」海斗は言葉を切る。決めつけることで見えなくなることを、彼はここ数か月で学んだ。だが学んだだけで、恥のようなものは残る。確信がないまま謝ることは、空虚な修辞になる恐れがある。自分の恐れが彼を動けなくしているのを、吐き出すほどの勇気がない。

そのとき、部屋のドアが開いて、芽衣(めい)が息を切らして入ってきた。息はパン屋の湿った暖かさに溶けて、髪の先が光を反射している。

「もう黙ってられない!」芽衣は机に手をつき、床に散らばった紙ボートを二、三つはらいのけた。拳がほんの少し震えている。彼女は海斗の能力のことを知っているし、莉奈の痛みも知っている。けれど、黙ることを選んだのは、彼女ではない。

「今日、私は学生会に書類出すよ。評価のプロセスを全部公開しろって。やらなきゃ、同じことが繰り返される」芽衣の声には、脆さと確信が混ざっていた。隣にいた蒼(そら)も頷く。蒼は普段無口だが、今日の目は違った。静かな怒りが底にあった。

「無理しないで」と莉奈が言うと、芽衣は首を振った。「責任を取るってのは、謝ることだけじゃない。黙って見ていた私たちにも、できることがある」

——「仲間たちがそれぞれの行動で責任を取る姿を見て自分も行動することを選ぶ」その瞬間が訪れた。海斗は芽衣たちの決意を見た。自分の胸の内でこびりついていた言い訳が、静かに剥がれる感覚がした。

「俺も……」海斗は言いかけて、手を布から離した。言葉を選ぶより前に、行動が必要だと彼の身体が教える。だがまだ躊躇が残る。何をすればいいかはわかる。すべきことは一つ、共同で何かを作って、その痕跡を二人で確かめ直すことだ。ただし、彼は同時に自分の能力のもう一つの代償を思い出す。急いで作れば、共同制作が壊れる。

「一緒に作ってくれますか?」と海斗は莉奈に訊ねる。言葉は素朴だったが、そこに嘘はない。莉奈の目が揺れる。彼女はテーブルの上の糸巻きを見て、指でひとつまみ取った。

「一緒に作る。だけど、急がないで。戻すための手順も必要だから」

彼女の言葉は合図だった。皆が立ち上がり、材料を集める。紙、布、木枠、膠(にかわ)と呼吸のペースを合わせるための短い合図。芽衣がふと笑って、「パン屋の二階でよかったね」と呟く。窓からは朝焼けの予感が浮かんでくる薄紫の帯。店先では、純平さんがまだ灯りをつけていた。パンの匂いが空気に残ることで、人々の肌が少し柔らかくなる。

皆でゆっくりと作業を始める。海斗と莉奈は布を張る木枠の前に座り、互いの手が何度か触れ合う。触覚の交換は、言葉の代わりになる。二人で針を刺し、糸を結び、声にならない会話をする。海斗は注意深く、己の期待を鎮めながら、ただ手を動かした。隣で芽衣と蒼が、昔の台本の断片を貼り合わせ、監督と称する者たちの決定過程を表すインスタレーションを作り始める。彼らの行動はそれぞれの責任の取り方だ。

しかし、部屋の空気はやがて慌ただしくなる。外から駆け込んできた者が、短時間で「これを直せ」と叫んで、縫い目に手を入れた。大勢の手が一つの縫い目に押し寄せる。海斗は胸が冷たくなるのを感じた。共同制作の一点に、意識なき力が集中する。数人が一気に糸を引き、針を急いで通す。その瞬間、木枠の布が鋭い音を立てて裂けた。裂け目は角から角へと走り、縫い目がほどける。布に残っていた温もりの輪郭が、物理的に引き裂かれた。

「やめて!」莉奈が叫ぶ。床に落ちた布の端が、光を反射して冷たく揺れる。裂け目のところに、ちょっとした紙片がはさまっていた。誰も気づかなかった。海斗がしゃがみこんで拾うと、その紙は小さな封筒だった。封筒には鉛筆で走り書きのように文字がある。封筒の内側には乾いた接着剤の痕跡。誰かが意図的にそこに何かを忍ばせ、共同制作を壊させるつもりでいた可能性がある。

海斗はゆっくりと封を切る。中には、手書きのメモが一枚。そこには日付と、いくつかの名前、そして「合議は安全の名のもとで行うこと」という句が記されていた。書き手の筆圧が最後に波打っている。海斗は読み進めるうちに、胸の底に冷たい石が落ちるような感覚を覚えた。これは個人的な悪意ではない。制度のための布石、評価を守るための猶予の合図。

「これ、誰の筆跡だろう」芽衣が小声で言う。海斗は顔を上げると、莉奈の目が濡れているのを見た。彼女の頬には、さっきまでの強がりを