パン屋の二階で演技が苦手な役者は卒業までに仲直りする 第19話「第17章」
二階の窓から差し込む午前の光が、パンの紙袋に反射して淡い金色の帯を作っていた。窓外には街路樹の新緑がざわつき、下の一階からはバターロールの焼ける香りが階段を上がってくる。水野漣は、テーブルの角に置かれた大きな紙箱を前に手をこすった。指先に小麦粉が残り、紙の繊維のざらつきが掌に触れる。心臓が少しだけ速くなるのを感じながら、彼はゆっくりと箱の蓋をそっと開けた。
二階の窓から差し込む午前の光が、パンの紙袋に反射して淡い金色の帯を作っていた。窓外には街路樹の新緑がざわつき、下の一階からはバターロールの焼ける香りが階段を上がってくる。水野漣は、テーブルの角に置かれた大きな紙箱を前に手をこすった。指先に小麦粉が残り、紙の繊維のざらつきが掌に触れる。心臓が少しだけ速くなるのを感じながら、彼はゆっくりと箱の蓋をそっと開けた。
中には、昨日までの稽古で欠けていた小道具たちが、ぎゅうぎゅう詰めで入っていた。色紙の切れ端、古ぼけた鍵、手作りの仮面、そして中央に、まだ乾ききっていない紙の封が一枚、厚い糊で貼り付けられていた。封の上には二つの手形が重ねられている――左は細く小さな掌、右は彼のよりも少しあたたかい。安堂瑞希の掌形だ。
「早くしないと審査員が来るって」藤本司が二階のドアを押し開けながら言った。彼の声は舞台監督のそれで、短く、指示の切れ味を持っていた。外で、誰かが拍手を練習するかのように手を叩く音が一度聞こえ、やがて消えた。
漣は無言で封に手を伸ばした。糊はまだ湿っている。共同制作――彼の能力は、二人で何かを創り出したときだけ、その上に互いの気持ちの痕跡を「残す」。それは触覚でも視覚でもない、何か薄い膜のようなものが、紙の表面にまとわりつく感触だった。指先がその膜に触れるとき、世界がほんの一瞬だけ外側からずれるように色が増し、彼は相手の在り様を見取る。
瑞希の手を自分の掌と重ねる。二人の指先が丁度いい隙間で触れ合った瞬間、漣の視界に柔らかな色の波が立った。ローズの色に近い、でも内側に青が混じったような線が封の縁を走る。温度がほんのり上がる。瑞希の不安、決意、そして何より「選ばなければならない」という鎧のような感情――それが波として、紙の上に薄く差した。
「来た?」瑞希の声が、漣の耳に近かった。彼は顔を上げて彼女を見た。薄く笑っているが、目尻には影があった。襟元の糸がくしゃくしゃで、指先は少し震えている。
漣は言葉を飲み込んだ。頭の中で、無数の「意味」がたちまち芽を出す。彼女は、告白するつもりなのか。あるいは、進路のこと――遠くへ行く決心をしたのか。彼はその「意味」に名前を付けたくてたまらなかった。名前を付ければ、この薄い波がくっきりと輪郭を取って、彼の前に答えを差し出してくれるように思えた。
だが、能力はいつもそれを許さなかった。決めつけるほどに、痕跡は見えなくなる。ラベルを貼る前に、それ自体が溶ける。
漣は自分の意識の端で、それを知っていた。それでも指先は動いた。彼は封の紙に軽く触れ、そして無意識にこう呟いた。
「……好きだって言うんだろう?」
言葉は小さかった。瑞希は一瞬顔を強ばらせ、そして笑いをこらえるようにして肩をすくめた。封の上を流れていたローズが、スッと薄くなった。紙の縁がパリッと音を立て、そこから小さな亀裂が走る。漣はそれを聞いた瞬間、胸に冷たいものが落ちた。
「漣……」瑞希が手を引こうとする。だが彼の意図とは裏腹に、動作が僅かにぎこちなくなった。二人の手の圧が、同じタイミングで抜けなかったのだ。共同で押さえた糊は、速さを失えば均一に乾かない。急いで仕上げようとする力が入りすぎると、接着が不均一になり、造形は脆くなる。
「ちょ、ちょっと待って!」藤本が間を割って入る。彼の指先が封に触れて確認する。糊の匂いが急に鼻をつく。漣はごく短い、まとまりのない焦りに囚われ、瑞希の目を見た。問いは返ってこない。彼女は何かを言おうとしたが、言葉を飲み込む。
パリ、という音がさらに大きくなった。封の角が裂け、二人の手形の一部が剥がれた。剥がれた紙片がテーブルの上に落ち、繊維の白い断面をさらす。そこに残されていた薄い色の波は、角から静かに消えていく。
漣の胸の中で、何かが切れる感覚があった。視界が狭まって、息が浅くなる。能力がさっきまで見せていた瑞希の内部の色が、いまやほとんど何も示さなくなっている。彼は自分が犯した過ちを理解した――知りたさに駆られて先取りしてしまったこと、結論を急いだこと、そして共同制作の節度を乱したこと。
「なんで無理に……」槙島海里が小さく呟いた。彼女は彼らの側で作業台に肘をつき、顔をしかめていた。客観的な声が、二階の空気を押し戻す。
「すまない」漣は言葉にならない謝罪を口の端でこぼした。喉が、妙に渇く。いつものように台詞を乗せるための筋肉が、自分の中で固まっていくのがわかった。声が出にくくなっている。漣はそれを不安に思いながら、もう一度深呼吸した。だが乾いた音しか出ない。声帯が絞られたように、ほんの一節さえ出なかった。
「漣?」瑞希が近寄ってきて、彼の肩に手を置いた。その掌はあたたかく、ほんの少し汗ばんでいた。漣はその温度に触れ、目の奥がじんとした。だが、その触れ合いが記憶の細部を一つ、彼から奪っている気がした。具体的には、三年前の文化祭で瑞希が笑いながら言った『忘れないでね』の音程が、今はふわりと曖昧になっていた。思い出せそうで思い出せない。彼が無意識に「確認」しようとした代償が、既に現れていた。
「明日、決めるよ」瑞希が低く言った。彼女の声はいつもよりずっと真面目で、カフェで冗談を言うときのその軽さはなかった。「選ばなきゃいけない。私にとって、どっちも重い。演劇研究会の推薦と、地元の会社の内定。両方ってわけには――」
「内定?」漣の声は、枯れていた。言葉はほとんど紙切れのように軽く、瑞希に触れない。瑞希の眉が一瞬跳ねた。彼女は視線を反らし、封に落ちていた紙片を拾い上げ、丁寧に指でほこりを払った。紙片の端が指に引っかかって、彼女はそれを丸めるようにして握りしめる。
「うん。両方」瑞希は笑おうとしたが、それがぎくしゃくした。彼女の首筋には赤い小さな跡があり、そこにある程度の緊張が見て取れた。漣はその跡を見て、胸が締め付けられるのを感じた。
藤本がテーブルに肘をつき、鋭く指示を出す。「今は舞台稽古の時間だ。個人的なことは休憩で。残りの小道具はこのまま乾かして、午後に仕上げる。審査員には『制作過程を重視する』って言っておけばいい」
だが漣と瑞希は、ただ頷くばかりだった。演劇の外にあった「制度」が、いつも二人の行為を計る。評価の目は、言葉を飲み込み、選択の自由を圧縮する。漣はそれに反撥したい気持ちがあった。見られること、判断されること。それが瑞希の決断を歪めているのだと、彼は感じた。
「漣、あなたはどうしたい?」瑞希が、低く問いかける。二人きりの時間が急に一枚の布で包まれた。パンの匂い、糊の匂い、木の温度。瑞希の目は厳しくも優しく、彼を見つめていた。
漣は答えをつくろうとした。だが、喉がまともに動かない。彼は自分の中の衝動に逆らった。もう一度、能力に頼らずに彼女を見ようと決めた。だがその瞬間、残っていた紙片が彼の膝の上に落ちてきて、そこに瑞希の鉛筆の走り書きが見えた。小さな字で「卒業後の道」という文字と、その下に二つの候補が赤と青で書かれている。漣の手は無意識に伸びて、それを開こうとした。
「駄目だ」藤本の声がピシャリと入る。演劇面の事情を優先する彼の口調には温度がない。「今は演出に集中しろ。