夜行バスで別れを決めた婚約者は秘密の料理を完成させる

夜行バスで別れを決めた婚約者は秘密の料理を完成させる 第19話「第17章」

カフェの窓は薄い雨に濡れて、夜の街灯を散らしていた。蒼い光が木製のテーブルを撫で、二つの手元だけが寄せられている。それ以外の空間は静かに、しかし確実に張り詰めていた。

カフェの窓は薄い雨に濡れて、夜の街灯を散らしていた。蒼い光が木製のテーブルを撫で、二つの手元だけが寄せられている。それ以外の空間は静かに、しかし確実に張り詰めていた。

「ここで、やるの?」花村結衣はカップを両手で包み込むようにして訊いた。声に震えはない。ただ、窓ガラス越しの自分の顔を見ないようにしていた。

朝倉蓮は肩の力を抜いて、深く息を吐いた。指先にはまだ小麦粉が残っているような感覚があった。昨日、友人たちに借りた簡易キッチンで二人分の下ごしらえをやって以来、その感触を確かめるたびに身体が反応する。

「うん。今日は二人で、一工程だけ、共同で作り上げてみたいんだ。秘密の料理の——部分を。」蓮はテーブルの上に置いた布袋を開け、中から小さな銀の缶を取り出した。中にはスパイスの粉が、夜の灯りに淡く輝いていた。

結衣の目が細くなる。缶に触れずに、蓮は続けた。「これに、君の塩の入れ方を加える。丸める前の生地に一度だけ、二人の手で触れる。僕の力はそのときだけ作用する。痕跡が残る。言葉じゃなく、物に——君と僕が作ったものにだけ、二人の感触が残るんだ」

結衣は笑わなかった。彼女はあの夜行バスの出来事を、まるで心の奥の台所で煮詰めるように、冷静に取り出していた。

「わかってる。あなたの、あの“力”ってやつね。だけど、それは本当に完璧なものじゃないんでしょう? 何かを決めつけてしまったら——それが見えなくなると、あなたが言ってた」

蓮の胸が収縮する。思い出すだけで痛い言葉だ。前に彼が言ったこと、その代償と禁止。痕跡を決めつければ決めつけるほど、相手の現在が霞んでいき、共同制作を急げば急ぐほど、物自体が壊れる。彼はその罠を意識していたからこそ、ここまで慎重だった。

「急がない。今日は時間をたっぷり取る。誰にも見せない。スマホもしまって、評判のことは考えないでいい」

中野佳奈がテーブルの端でコーヒーを啜りながら口を挟んだ。「評判は向こうで勝手に動く。私が今日のライブ配信の通知を止めておいたから、大丈夫。佐伯くんは厨房の裏手で材料の手配をしてる。逢坂は来るって」

逢坂舞はそこで、本当に最低限だけ入るべき人物のように、カフェの扉を押して入ってきた。手には布巾を抱え、表情は柔らかいが、目は真剣だった。「私たちは干渉しない。ただ、二人が安全に作れるようにするだけ」

結衣が蓮に向き直る。窓ガラスの向こうに、夜行バスの停留所が小さく見えた。あの古い鋼鉄の匂いを思い出すと、結衣は顔をしかめた。あのときの決断は、結衣の身体に錆を残していた。

「いいわ。だけど条件がある」

蓮は息を呑む。条件。彼女が自分の意志でここに来た証だろうか。あるいは余計な防御か。

「共同で作るっていうのは、私がただあなたに従うってことじゃない。私は私のやり方で塩を入れる。あなたは自分の感触で粉を触る。もしあなたがあの“痕跡”を根拠に『こう感じた』って僕の代わりに決めつけようとしたら——その瞬間、私は手を引く。君の力が働いた物を、私の意思ではないものに変えるのは嫌だ」

「約束する」蓮は小さく頷いた。約束がどれほど重いかを、彼は知っていた。だが――約束だけでは足りない。それを体現することが必要だった。

二人はエプロンを結び、小さなボウルと木べらを並べた。手を触れさせる前に、蓮は目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整える。彼が能力を発動するのは、二人の触れ合いが同時に行われる瞬間だけだ。感覚は繊細で、波紋のように広がる。物に残る痕跡は、香りや温度だけではない。ためらいや躊躇、あるいは確信の瞬間が混ざって残ることもある。

結衣が指を粉に差し、ゆっくりと塩を掬った。その動きは硬く、しかし確かだった。蓮は、自分の掌を生地に置き、二つの手の圧が重なった瞬間を待った。

「今だ」蓮は心の中で言った。小さな閃光のような感覚が彼の胸を走る。痕跡が立ち上がる。二人の手の温度、その時のためらい、意図の波形が生地の中に刻まれる。蓮はそれを"見る"ことができた。淡い色彩のように、結衣の不安と決意が交差している。

だが──彼はそこで間違えた。

その淡い色を見て、蓮は結衣の気持ちを確定しようとしてしまった。「彼女はまだ迷っている」と彼は無意識に結論づけ、その上で生地の硬さを変えようと余分な力を入れてしまう。痕跡を読み取ったことで、彼は「どうすべきか」を決める権利を負った気になり、手を速めた。急いだのだ。時間を詰めれば、早く完成すると思った。

木べらが滑った。粉が飛び散り、蓮の手からボウルが傾く。生地は粘りを失い、綻び始める。結衣の目が大きく開き、二人の指先は同時に生地の破れ目に触れた。

「やめて、蓮!」結衣の声は鋭く、悲しげだった。その一言で蓮は自分が犯したことの全てを理解した。急ぐことで、共同制作は壊れる。触れて刻むはずだった痕跡は、無理に形を変えられて歪んでしまった。

体に冷たい金属の味が走る。目の前の景色が滲んだ。蓮は視界の端に、色が混ざり合うような感覚だけを残して、思い出の縁をつかめなくなった。手の中の生地はぼろぼろで、二人が歩んできた時間が、指先からこぼれ落ちる音がした。

「何をしたの、蓮さん……」逢坂が静かに言った。非難ではない。ただ事実を指摘するように。

中野は息を弾ませながらテーブルに手をついた。「配信止めて正解だったよ。これが外に出てたら、好き勝手に書かれて終わってた」

結衣は布巾で自分の手を拭い、その行為を終えると、蓮を見つめた。「あなたが、私の気持ちを読み取って決めつけるなら、共同なんてできない。あなたの“見る”は、私を消費する道具じゃない。分かる?」

蓮は言葉が出なかった。胸の中に、何かがぽっかりと空いたようだ。視界の滲みは引き始めていたが、代わりに、彼の頭の中から小さな記憶が消えかけている。――二人が初めて一緒に作ったスープの名前。そのとき結衣が笑った言葉。蓮はどうしてもそこを思い出せず、指先に残る粉をぎゅっと握りしめた。

佐伯がため息をつく。「これが代償なんだよな。使うたびに、何かを差し出す。今は記憶だ。次は、もっと大きいものかもしれない」

蓮は顔を上げ、必死に目を潤ませた。「ごめん。僕が決めた。約束を守らなかった。急いでしまった。君を守るって――そう思ったんだ。でも、それは僕の奢りだった」

結衣の表情は柔らかくなって、しかし厳しさは消えない。「守る、って言葉は時に暴力になるの。誰かの選択を先取りしていい理由にはならない。あなたは評判に対しても臆病だった。それで私を閉じ込めるのはやめて」

数分の沈黙の後、結衣はゆっくりと立ち上がり、缶に手を伸ばした。外からの雨音が窓を打つリズムと重なる。

「もう一つ、条件がある」彼女は蓮に向き直る。「最後までやり直すなら、その“場”を私が決める。私が選ぶ場所で、私の言葉で、私が本当に同意できるときだけ。あなたの都合のいい時間に合わせるのはやめて」

蓮の喉が詰まる。心の中で何かが引き裂かれ、同時に小さな希望が湧いた。彼女がまだ選ぶことを望んでいる――それは最も望ましい兆候だ。

「場所は?」中野が訊いた。

結衣は窓の外の停留所を見た。バスの輪郭がぼんやりと浮かんでは消える