学校新聞部で言葉の遅い少年と少女は一通の手紙を追いかける

学校新聞部で言葉の遅い少年と少女は一通の手紙を追いかける 第5話「第4章」

ペンキの匂いが鼻の奥をざらつかせる。廊下の窓から差し込む午後の光は、作業机の上に散らばった色紙と糊の瓶を薄く透かしていた。文化祭準備で開け放たれた美術室は、祭りの期待と焦りが混ざった汗の匂いで満ちている。新聞部の臨時取材名目で二人はここにいる。森永凪は、妙に重たいはさみを握ったまま、ゆっくりと紙を切る。日向瑠依は、紙片を指先で折り、人差し指の腹で縁をなぞると同時に糊をそっと差し出した。

ペンキの匂いが鼻の奥をざらつかせる。廊下の窓から差し込む午後の光は、作業机の上に散らばった色紙と糊の瓶を薄く透かしていた。文化祭準備で開け放たれた美術室は、祭りの期待と焦りが混ざった汗の匂いで満ちている。新聞部の臨時取材名目で二人はここにいる。森永凪は、妙に重たいはさみを握ったまま、ゆっくりと紙を切る。日向瑠依は、紙片を指先で折り、人差し指の腹で縁をなぞると同時に糊をそっと差し出した。

「ここ、こうだよね」

瑠依の声はいつも少しだけ遅れて届く。凪は頷く。二人が息を合わせて折り紙の灯籠を作ると、周囲の騒がしさが少しだけ後ろに下がるような感覚があった。共同制作をはじめたとき、その「痕跡」は静かに現れ始める。彼らの力は奇妙に正確だ──二人が一緒に取り組んだ物だけが、他人の気持ちを薄い匂いのように宿す。

「石塚さん、また独りで作業してる」

凪が指さす先に、黒いセーターの少女がいた。石塚遥。描かれた看板に向かって無言で筆を走らせる背中はまっすぐで、小さな肩が時折震えた。周りは賑やかで、誰も彼女に話しかけようとはしない。文化祭の人気度を点数化するポスターが壁に貼られている。上位にはスポンサーや表彰、奨学金を巡る話がついて回るのだという噂が、去年から学校に根付いていた。

「近くで一緒に作っていい?」瑠依が短く訊く。言葉は少ないが、二人の了解は確かだ。

石塚は一瞬だけ顔を上げ、淡い笑みを返した。そして凪と瑠依は彼女の隣に座った。三人の指が同じ紙に触れる瞬間、灯籠の和紙の繊維に微かな振動が走った。凪は掌の底に、誰かの指先が触れたような温度を感じる。言葉ではない何かが、和紙の内側でざわついた。

「感じる?」

瑠依の目が揺れる。二人は同時に手を重ね、和紙を挟む。映像が来る。夏祭りの夜、すこし濡れた路面を二人で歩いている気配。笑った声の一断片。持たれている右手の感触。だがそれは断片で、欠けている。彼らは痕跡を読むことができるが、決めつけることはできない──そう教わってきた。

「……誰かと来たのかな」

凪が口にした瞬間、和紙の中の景色が薄くなる。まるで向こう側に置かれたカーテンが一枚、引かれたかのようだ。瑠依が慌てて唇を噛む。二人は視線を合わせ、無言で苦笑した。口に出すと痕跡は消える。

「決めつけたら駄目なんだ」

瑠依が小さな声で言う。凪は頷き、言葉を飲み込む。だが同時に焦りが生まれる。追いかけているのは、ただの興味ではない。手紙を見つけることは、誰かの痛みを解く手がかりになり得る。だからこそ、早く答えが知りたい。だが急ぐほど共同制作は壊れる。灯籠の糊が、瑠依がふいに強く押しすぎたせいで皺になり、和紙の繊維が裂けた。

「まずい」

凪が静かに呟く。破れは小さく、すぐに修復できるものだったが、三人の空気がぎくりと引き締まる。石塚は一瞬目を伏せ、そっと糊で裂け目を繕った手を引く。凪はなんとか取り繕おうとしたが、言葉が出なかった。喉の奥が妙に重く、声に力が入らない。能力を動かした後の、いつもの代償だ。短時間、言葉や音が遅れて出る。今日はそれが瑠依とも重なってしまっている。

そこへ生徒会長の桐谷奏が、手元にスマートなクリアファイルを抱えて近づいてきた。彼女は学院の顔として、文化祭の点数管理を仕切っている。背筋が伸び、眼差しは冷たい。桐谷は灯籠の裂け目を見て、眉を寄せる。

「何をしている。装飾は提出基準がある。乱暴に扱えば減点対象だ」

桐谷の声には慈悲がない。だがその声の端に、疲労が滲んでいた。凪がぎこちなく礼をしようとすると、文字通り言葉が詰まってしまい、代わりに小さな音しか出なかった。周囲の数人がちらりとこちらを見て、すぐに元の作業に戻る。恥が顔に張りつく。

桐谷は灯籠を受け取り、裂け目をそっと繕う。指先の動きが思いの外丁寧で、それが凪には不器用な優しさのように見えた。

「減点は学校にとっての損失だからね。上位に入れば、校外の協賛も増える。奨学金にもつながる。あなたたち、新聞部ならわかるでしょ?」

桐谷は顧問の目が光る中で淡々と説明する。彼女の説明は制度として合理的だ。だがその合理に埋もれて、誰かの選択が押し潰されていることを凪は直感する。

「その、石塚さんは……?」瑠依が問いを差し向ける。石塚は一瞬ためらい、筆を止めた。彼女の目が乾いている。

「私は、点だから。点を取るための作業部員。個人は、要らない」

石塚の声は小さく、悲しげに震えた。和紙の灯籠は、彼女の手ではなく制度のために作られているとでも言うように。凪と瑠依は互いに視線を交わす。灯籠に残った痕跡は、夏の夜の断片で、誰かと寄り添った記憶だった。だが石塚は「誰か」との記憶を使うことを、評価に換算されることを恐れているのかもしれない。

そのとき、桐谷がふっと表情を変え、背後の人混みを一瞥した。口元が硬くなる。凪はその表情に、責任という重さを見た。桐谷は生徒会のプレッシャーをまとっている。彼女の家計が学院の評価に依存しているという噂は、ただの噂ではなさそうだ。

「この制度は、誰かを救うために始めたものよ。私の妹のために」桐谷の言葉はぽつりと漏れた。周囲の空気が止まる。桐谷は普段は見せない素の一面を一瞬だけ晒したのだ。凪はその言葉を飲み込む。制度を悪に断じるだけでは、現実は簡単に変わらない。

三人で作った灯籠は、裂けた箇所が修繕され、淡い光を宿す。和紙の内側でまた、気持ちの痕跡が揺れる。凪はその振動を感じ取りながら、頭の中で計算する。手紙を追う理由が、個人の好奇心から、制度の問題へと変わり始めている。彼らが取るべき行動は、単に封を開けることではない。誰かの選択を奪わないために、慎重であるべきだとわかる。

掃除の合間、瑠依が小さな紙切れを床の隙間で見つける。紙は端が黄ばんでいて、そこに細い字が書かれている。凪が指先で拾い上げると、そこには読み捨てられたような短い文があった。

「……点が私を壊す」

三人は沈黙する。文字は誰のものか特定できない。だが紙片は確かに、追いかけている手紙の存在を現場に近づける手がかりだった。凪の胸の中で、言葉が遅れて湧き上がる。今、すぐにその紙をどう扱うかで、次の選択が生まれる。

開くべきか。待つべきか。誰に見せるべきか──。

凪は瑠依を見る。瑠依の瞳はいつもと同じように穏やかだが、指先が少しだけ震えている。周囲の雑踏が一瞬大きくなる。二人は同時に手を伸ばし、紙をそっと折り畳む。誰かの痛みを覗きこむことは、簡単な解決にはならない。けれども、その紙を誰かに預ける決断は、すでに二人の中で形を取り始めていた。