神社の社務所で帰省しない社会人は別々の未来を応援する 第23話「第21章」
社務所の戸が閉まる音。ふすまがわずかに軋み、午後の光が格子の影を机の上に投げた。航はノートパソコンの画面を見つめたまま、薬缶の湯気が立つのを見送る。画面の左上に掲示板のスレッドが開かれている。匿名の書き込みが延々と連なり、見出しは赤い三角で目立つ。「ワークショップ参加者の素性」──一行一行に、確信に満ちた断定と想像が混ざっていた。
社務所の戸が閉まる音。ふすまがわずかに軋み、午後の光が格子の影を机の上に投げた。航はノートパソコンの画面を見つめたまま、薬缶の湯気が立つのを見送る。画面の左上に掲示板のスレッドが開かれている。匿名の書き込みが延々と連なり、見出しは赤い三角で目立つ。「ワークショップ参加者の素性」──一行一行に、確信に満ちた断定と想像が混ざっていた。
「また増えたか」
茜の声が社務所の奥からした。彼女は手に濡れた傘を抱え、袖で額の雫を拭きながら座布団に尻を落とした。外からは近所の子どもたちの笑い声と、時折通り過ぎる自転車の音。室内は線香の香りと古い木の匂いが混ざって、いつもより重い。
「大悟は今日、上司から呼び出されたって」茜がスマホの画面を見せる。メール画面には短い文章。『社内調査のため、当面出勤を見合わせてください』――差出人は市のイベント部署ではなく、勤務先の人事部名で送られていた。
「美里さんは……解雇通知が来た。展示も取り下げられたって」茜の手が震える。航はその震えに気づき、胸が締めつけられた。
「全部、あの噂のせいだ」茜の声は怒りと哀しみが混ざっていて、言葉を吐き出すようだった。航は画面のスレッドに戻る。新しいレスは匿名の証言と称して、ワークショップでの発言や写真の切り取りを列挙していた。どれも断片。どれも全貌を欠いている。
「でも、法的には動けないんだろう?」椿が座布団に突っ伏すようにして入ってきた。彼女の目元には眠り不足を知らせる濃い影がある。
「裁判所は手続きの一時停止だって。証拠が整うまで待つしかない」航はそう答え、自分の声が思ったより低いことに気づいた。待つという選択は、被害者にはさらなる時間の猶予を与える。桐野が動く時間を与える。
その時、勝手口が開いて美里が駆け込んできた。顔は赤く、眼の下にはすでに泣いた跡がある。手には一枚のチラシ。黒いインクで大きく「不正疑惑」と書かれ、下には見知らぬ雑な文章と、彼女の名前が並んでいた。紙の端は濡れて少しヨレている。
「これ、玄関に貼られてたの。朝、出かける前に見つけて……」美里は声を詰まらせた。紙を差し出すと、航は指先にインクのざらつきを感じた。印刷ではなく、手で押したようなムラがある。
航は深く息を吸い、決めた。待っているだけでは何も変わらない。だが、どう動くべきか——彼の中でいつも引っかかるのは、能力の決まりだった。共同で作った物にだけ、ふたりの気持ちの痕跡が残る。だが、それを決めつけると見えなくなる。急げば急ぐほど、その共同制作は脆く壊れる。
「私たち、やり方を変えないと」椿が言った。「噂に対して反証するだけじゃ駄目。私たちがここにいるってことを、みんなに見せるべきだと思う」
「手作りの冊子を作るのはどう?」茜が提案した。「ワークショップにいた人たちの声を集めて、自分たちの言葉で。ネットのスクショだけじゃなくて、手で触れるものを」
航はその案に目を閉じた。共同でつくる物。彼の能力はその物にしか痕跡を残さない。だが、時間はない。もし彼が強引に指示を出して短時間でまとめようとすれば、痕跡は消える。情緒の代わりに空っぽの言葉だけが残るだろう。
「急ぐな、ってことだ」航は小さく言った。自分に対する戒めでもある。
椿が頷き、まずは素材を揃える段取りを取り出した。和紙、糊、和綴じの紐。手製の冊子は、どこか神社らしい温度を持つ。航は呼吸を整え、箱の中から筆を取り出した。筆先の毛の感触が指先に伝わると、心が少し落ち着く。
最初のページを誰が書くかで一瞬の沈黙が流れた。自分の体験を書く者、公の声明を書く者、イラストを描く者。美里は震えながら「私の番を…」と言いかけ、紙に筆を置いた。墨のにおいがふわりと立つ。
航は、つい出過ぎたことをした。彼は美里の筆を持ち上げ、どう書いたらいいかを指示しようとした。「ここはこう。もっと具体的に、いつ、誰が、どう」——
その瞬間、冊子の紙面に滲んだ墨が、まるで息を止めたかのように薄くなった。美里が筆を止め、顔を上げた。航の胸に鋭い痛みが走る。指先が痺れ、不自然な冷たさが掌を這った。視界の端がぼやけ、耳鳴りが小さく重なる。
「航、大丈夫?」茜が手を伸ばす。航は咳き込んで、筆を返した。筆先に残った黒は、薄く、かつて描かれたはずの線を差し出していたが、触れるとほとんど指に何も残らない。
「決めつけたからだ」航は息を吐く。声が花びらのようにこぼれる。「痕跡を、こうだって決めてしまった。すると、見えなくなる。俺のせいだ」
美里は震えた笑みを作って首を振った。「駄目よ、航さん。私の気持ちを代弁しないで。私が自分で書く」
彼女は自分の手でゆっくりと筆を動かし、言葉を選びながら書いていく。形容詞を削ぎ、出来事を描く。大悟が入ってきて、裏表紙に鉛筆で走り書きのメモをする。椿はページの装飾を黙々と進め、糊の匂いがほのかに立つ。誰かが笑い、誰かが黙り、時折嗚咽が漏れる。その都度、航は一歩引いて、相手の手が紙に触れるのを見つめた。
少しずつ、ページの端にある薄い模様が浮かんできた。最初は筆跡の重なりのような、偶然のシワだと思っていたものが、触れると暖かさを残した。航はそれを感じて、息を殺した。自分が決めつけず、時間をかけて共同で作ったからこそ、痕跡が残ったのだ。
「これが、私たちの声ね」茜が言う。声は確かで、揺れていなかった。
外の世界では、匿名掲示板に新しいスレッドが立ち上がっていた。航のノートパソコンの画面には、スクショとともに「証拠写真」と称する画像が並ぶ。だが社務所の机の上では、誰かの涙が吸い込まれた紙が静かに乾いていく。ネットの冷たい断定と、手で作られる温度の差異が、彼の胸の中で不協和音を起こした。
午後が夕方に変わるころ、彼らは最初の十ページほどを綴じ終えた。和綴じの紐を硬く結ぶと、冊子はしっかりと存在感を持った。表紙には美里が描いた小さな稲穂の絵があしらわれ、裏表紙には参加者全員が小さく署名をした。署名はデジタルではない。指先の温度が、確かにそこに残っている。
突然、社務所の小さな郵便受けが金属音を立てて鳴った。誰かが外に何かを投げ込んだらしい。航が戸を開けると、薄暗い路地に濡れた紙片が散らばっている。拾い上げると、それは手作りのチラシだった。あの朝見つかったものと同じ体裁──同じ不正確な断定、同じ雑なインクのムラ。だが裏面に、小さな判が押してあった。朱肉の円の中に、判子の痕。判刻には見慣れぬ文字。
「この判、どこかで見たような……」椿が指差す。航は記憶を巻き戻すように、最近の電話や届けられた封書を思い返した。確かに市役所の関係書類の角に同じ小さな印を見かけたことがある。表向きはただの手数料受領印のように見えるが、使いどころは限られていた。
「桐野が、裏で手を動かしてるんじゃないのか」茜が低く呟く。声は冷たかった。彼女の瞳には怒りが燃えていたが、同時に恐れも宿っていた。
「法的な手続きが止まっている間に、個人的な消去工作をしているってことか」大悟が言った。「顔をつぶしておけば、そっちの勝ちだ。裁判なんて意味がなくなる」
航は冊子を閉じ、しわくちゃのチラシと朱の判子を並べた。