神社の社務所で帰省しない社会人は別々の未来を応援する 第2話「第1章」
午後の日差しが、社務所の障子から斜めに差し込んでいた。埃の粒が金色の帯になって空気を切る。航は畳に肘をつき、古い絵馬の破片を並べていた。指先に残る木屑と研磨剤の粉の匂い。外では鈴の音が風に揺れ、誰かが参道を歩く靴音が遠くで途切れた。
午後の日差しが、社務所の障子から斜めに差し込んでいた。埃の粒が金色の帯になって空気を切る。航は畳に肘をつき、古い絵馬の破片を並べていた。指先に残る木屑と研磨剤の粉の匂い。外では鈴の音が風に揺れ、誰かが参道を歩く靴音が遠くで途切れた。
「まだここにいるんだね」
声は、子どものころに聞き慣れたものだった。振り向くと、結衣が小さなキャリーバッグを引いて立っている。黒のジャケットの襟にはまだ旅の皺が残り、頬は都会の空気に晒されたように少し硬い。手には封筒。封筒の角が折れていて、そこから薄く光る紙の端が見える。
「結衣……どうした、こんな時間に」
結衣は唇をかみ、小さな笑みを作った。笑みの端に、どうすればいいのかわからない重さが載っている。
「これ、受かったの。向こうの会社。面接の日に……その、内示ってやつ。明日には返事を出さないといけなくて。で、新幹線も調べたけど、昼の便はもう取りにくくて。だから、直接、航に相談したかったんだよ。子どものころから、あんたなら私のことを変に決めつけないって思って」
航は俯いたまま、割れた絵馬の一片を手に取る。そこには幼い文字で「結婚できますように」と、にじんだ筆致が残っていた。昔の仲間たちが書いた願い事が、何年も天に晒されて朽ちかけている。社務所の片隅に積まれたまま、誰にも気づかれずに。
「答えをあげるつもりはないよ」と航は言った。声は低く、いつもより慎重だった。「ただ、一緒に直すことならできる。二人で作ったものには、痕跡が残る。読むことができるんだ。直接本音を覗くんじゃなくて、二人でやった仕事にだけつくんだよ」
結衣の眉が少し上がる。驚きと戸惑いが混ざる。航はいつものように、それ以上の説明はしなかった。説明しすぎれば、彼の持つものは消えていく。長く使うために、言葉は慎まなくてはいけなかった。
「どうして絵馬なの?」
「昔、ここにみんなで掛けた絵馬の端っこが、まだ残ってる。それを一緒に継いでみよう。接着する行為、磨く行為、向きを決める小さな選択――その連続に君の声が残る。僕はそれを読む。だけど、僕が『こうだ』って決めつけた瞬間に見えなくなるんだ」
結衣はゆっくりと奥の棚へ歩き、埃を払って一枚の絵馬を取り出した。表面は雨の跡でぼやけ、紐は色あせている。中央に大きく割れ目が入り、接合された跡は古い糊で黒ずんでいた。腕を伸ばして航に差し出す。航はそれを受け取ると、畳の上に広げ、破片同士を合わせていく。
二人の呼吸が、作業のリズムに同期していく。航は薄い紙やすりで、割れた断面を滑らかにする。紙やすりが木に触れる音、細かな粉が指の腹にまとわりつく感触。結衣は糊を広げる筆を握り、震えた手で端を押さえる。指先が触れ合うたびに、何かがぴくりと震えるような気配がした。
航は、わずかに集中を深めた。社務所の空気が濃くなる。耳鳴りにも似た低い音が耳の奥に触れ、視界の端で絵馬の木目がほんの少し光る。共同して施された部分に、微かな影のような痕跡が浮かぶ――躊躇のひだ、希望の小さな艶、過去の約束が残した鋭い引っかき傷。
「ここ、見える?」航が囁くように言った。
結衣は息をのんで、絵馬を覗き込んだ。「どう見えるの?」
「決めつけないで聞くんだ」と航は手を止め、筆を置いた。「君の言葉を聞かせて。僕はそこからだけ、読み取る」
結衣は深く吸って、封筒をぎゅっと握りしめた。紙の端が指先で白くなる。窓の外、夕暮れが近づき、影が長く伸びる。
「都会に行ったら……やりたい仕事ができる。たくさん学べる。でも、母さんはここに残ってほしいと言う。親戚は、『地元を大事にしなさい』って。あと、幼なじみの祐介も――彼、ずっとここにいるんだよ。彼の進路を全部知ってるわけじゃないけど、結婚とか、そういう噂が出て……私は、自分が『勝ち組』になるために出ていくわけじゃない。だけど、ここにいることは、私を縮こませる気がする」
言葉の最後で結衣の声は震えた。航はそっと彼女の手を取らず、絵馬に手を添えたまま返した。自分の手首に残る紙やすりの粉が、震えを伝える。彼自身も、ここに留まることと、どこかへ行くことの間でいつまでも止まっていた。
「僕は、君に『行け』とは言わないよ」と航は改めて言った。「行くことが正しいとは限らない。ここに残ることも、諦めじゃない。だたし、君が選べるように手伝う。君の選択が消費されないように。噂や評価で塗り固められるのを防ぎたいんだ」
結衣は視線を落とし、窓のそとで揺れる木の葉を見た。小さな声で、「どうやって?」と訊く。
航は筆に糊を取り、慎重に割れ目に塗った。二人で押し合わせる。木が軋む低音がした。結衣も力を入れて、端を押さえる。二つのぴったり合う音。共同制作の瞬間、絵馬の表面に先ほどよりはっきりした痕跡が浮かぶ。今度は躊躇に混じって、小さく弾む音のような希望の印だった。航はそれを視線でなぞる。
「君の中には、『行きたい』の列と、『残りたい』の列がある」と航は言った。「どちらにも理由がある。どちらも君の一部だ。僕は、どっちが正しいかを決められない。ただ、僕はその選択が――誰かの噂や採点に飲み込まれないように、君自身が選べるようにしたい」
結衣の目が潤む。航の言い方は回りくどく、だけどその回りくどさが彼女を責めなかった。
「私、誰かに褒められるために行くんじゃない。成功のために出ていくんじゃない。でも、失敗したらどうしようって思うと怖い。地元に残って、安心して暮らす方が楽かもしれないって自分に言い聞かせてる自分がいる」
航は息を吐いた。社務所の中に、二人の作業の音だけが残る。絵馬の接合部が乾き始め、色の違いが馴染んでいく。だが結衣の足元、畳の縁に置かれた封筒の角が、風にそっとめくれた。中から覗いたのは、封筒の差出人の名前。そこには、「都市開発部」という役職名が書かれていた。結衣が首をふるように笑った。
「あれ、本当に受かったの? 内示なのに部署名まで?」
「うん。でも、まだ決めてない。内示って、いきなり……あんまり詳しく教えてくれなくて。研修とか勤務地とか。向こうは向こうで私を求めてるっていうんだけど、向こうの都合で動いてしまうのも変な気がするし」
航は絵馬を見つめたまま、小さな実験をしてみる誘惑にかられた。痕跡はここにある。刻まれた微かな希望と躊躇。もし僕がそこに「選べ」とか「行け」と強く言ってしまえば、彼女の痕跡を固定してしまう。航はそれが許せなかった。能力の禁止はただのルールじゃない。痕跡を決めつけると、それ自体が消える。そうして読めなくなるだけでなく、二人で作った信頼の一部も崩れてしまう。何度か、それが起きたことがある。相手の人生を代わりに決めることで、取り返しのつかない亀裂が入るのだ。
それでも、航の胸の奥には別の衝動が湧いた。結衣の揺れが、祐介の噂が、町の冷たい視線が、彼女を失うかもしれないという恐れ――自分が救わなければという衝動。無責任という言葉が、心の端でざわつく。航はそれを飲み込んだ。深く息をして、わざと穏やかな問いを投げる。
「どんな朝を迎えたい?」
結衣はしばらく考えて、眉を寄せた。「あまり考えたことない。朝って、通勤の匂い