神社の社務所で帰省しない社会人は別々の未来を応援する 第13話「第12章」
社務所の電球がまだ暖かさを保っている。障子の向こうに白む夜明けがじんわりと広がり、駅のネオンは遠くでまだちらついている。机の上には裂け目の入った小さな紙箱――前夜に壊れかけた「二人の本」の欠片が、そっと重ねられていた。航は低い椅子に座り、包帯に巻かれた右手を左手でさする。紙の匂いと線香の残り香が混ざって、いつもの社務所よりも人の営みが濃く感じられた。
社務所の電球がまだ暖かさを保っている。障子の向こうに白む夜明けがじんわりと広がり、駅のネオンは遠くでまだちらついている。机の上には裂け目の入った小さな紙箱――前夜に壊れかけた「二人の本」の欠片が、そっと重ねられていた。航は低い椅子に座り、包帯に巻かれた右手を左手でさする。紙の匂いと線香の残り香が混ざって、いつもの社務所よりも人の営みが濃く感じられた。
「痛むか?」
結衣が茶碗を差し出しながら訊いた。彼女の声は眠そうで、それでいてしっかりしている。箱の中の端切れをちらりと見て、指先でそっと触れた。触れられた紙は、前夜の痕跡を薄く残していた――二人で押した指紋、滲んだインクの重なり、夜通し笑いながら貼った切り貼りの断片。そこにしか残らない痕跡だ。
「少し。無理に読もうとしたから、壊したんだ」航は俯いて言う。言葉にするたび、記憶の断片が滑るように曖昧になる。あのとき、彼は無理に答えを得ようとして共同制作を急がせた。痕跡が濁り、紙が裂け、彼は胸に鋭い痛みを感じた。痛みの代償は腕だけではなかった。彼は、結衣が午後に笑った瞬間の匂いを一つ、ぎゅっとつかめない。
結衣は航の目を見て、小さく息を吐いた。「またやるのは怖いよね。でも、今日は壊さないでほしい。お願い」
その「お願い」は、去年の夏の午後に交わしたあの頼みごとと同じように真剣だった。航は顔を上げ、包帯の指を結衣に差し出す。二人の指先が触れ合うと、微かな電気のような感触が走った。彼が能力を使うときはいつも、世界の輪郭が一枚薄く剥がれる。だが今は、使う・使わないではなく、どう使うかが問題だった。
戸が乱暴に開いて、民生委員の齋藤と、仲間の美奈が入ってきた。彼らの顔には昨夜の騒ぎの疲労と達成の色が混じっている。あとから宮司が小走りでやって来て、袈裟の裾を押さえながら息を整えた。
「外が大変だ。評議会は今日はもう動けないってさ」齋藤が肩を落とす。「でも、住民投票は中止にならなかった。代わりに、皆がここに集まって、勝手に『共同制作』を置いていったよ。社務所の前が小さな棚だらけだ」
美奈が笑って見せる。その笑いにはほっとした痕跡が残る。昨夜、彼女たちは評議会の公開審議場で「恋愛を評価する指標」を提示するデモをぶち壊した。航が能力を使って対象の痕跡を読み取ろうとした瞬間、評議会の補佐役が面白半分に公開バイラルを誘導しようとし、かえって混乱を招いた。結果、町の人々は顔色を伺うのをやめ、各々が自分たちの手で「どう応援するか」を決めることにしたのだ。
「制度を潰したわけじゃない」と宮司が言った。「でも、今日は『ここに置くものは共同で作られたものだけ』って合意ができた。社務所が──なんというか、窓口じゃなくて作業場になってる」
窓口で済ませてしまえば楽なのだ。それを拒否した人々が、紙片や小さな工作を抱えて社務所の前に座り込んだ。そこには、遠くの息子に縫った小さな手袋、恋人と分け合った折り鶴の束、新しく始めた店のチラシと一緒に作ったポストカード。色もかたちもばらばらだが、どれも二人以上で触れ、時間をかけて手を動かしたものだった。
航は立ち上がって、裂けた紙箱をゆっくり開く。指が触れるたびに記憶がふわりと揺れる感覚――それは彼がこれまで避けてきた代償の現れだった。だが今、壊すわけにはいかない。壊れた断片は繊細で、急げばまた破裂する。結衣が一枚、破れた頁を拾い上げ、額縁のようにしてゆっくりと貼り合わせる。彼女の指は冷たく、でも確かなリズムで動いた。
「一緒にやろう」結衣が言う。その声音に、昨夜の結衣の決意も、駅のネオンの光も混ざって聴こえる。航は息を整え、肩を張った。共同するということがこの能力の条件を満たし、代償を軽くする唯一の方法だ。あの不可視のルールは、「単独で判断してしまえば見えなくなる」とはっきり告げている。だからこそ、彼らは一緒に、ゆっくりと作業しなければならない。
作業は静かだが確かな共同作業だった。糊を伸ばし、ページを擦り合わせ、結衣が歌の断片を口ずさむと、航はそのリズムに合わせて文字を切る。美奈は側で小さな糸を結い、齋藤は外で来訪者の対応を続ける。夜が明けて、社務所の障子を通して光が差し込むと、その紙の束に微かに層が見え始めた。指紋と笑い声のようなものが折り重なり、まるで何層もの時間が透明な紙の上に押し付けられたかのようだ。
そのとき、戸がノックされ、評議会の代表である藤森が顔を出した。彼は昨夜まで制度を擁護していた人物だが、綻びが見えた。彼の目は疲れていて、しかし言葉はゆっくりと柔らかかった。
「私は、自分の若い頃を思い出しました」藤森は俯き、続けた。「選択肢を減らすことで楽になろうとした。評議会の論理は、人の不安を計算に落とし込むことで動いていた。でも今朝、誰かが私の机に手作りの小さな紙袋を置いていった。中には妻と作った古いレシピの切り抜きが入っていて……あれを見て、初めて気付いた。何かを守るとは、決めつけることではない。私は制度を変える。公的に強制するのではなく、ここに来る人が手を使って決める場を作る、と」
それは小さな告白だったが、社務所の空気を変えた。誰かがうなずき、誰かがふっと笑った。制度の守り手が自ら選び直したことで、勝負は終わったのだ。勝負というより、終わりなき会話が別の仕方で始まったのだと、航は理解した。
だが、代償は消えなかった。航はふと、自分が昨日の夜に結衣と交わした話の細部を思い出せないことに気付く。結衣の左耳のほくろの位置、彼女が駅でにぎったチケットの縁の折れ方、小さな約束の言い回し――そうした些細な個人の痕跡が、一つずつ抜け落ちていく。能力を強く使ったときに喪失するのは、こうした記憶だ。彼はそれを受け入れていたつもりだったが、喪失の深さが現実になると、胸が詰まる。
「覚えていることは、これからまた作ればいいんだよ」結衣が言った。彼女は航の手を取って、目をじっと見つめる。そこには信頼があった。記憶の欠片を失っても、また一緒に新しい痕跡を作ることはできる。選び直すことは可能だと、彼女は示していた。
社務所の扉の外では、町の人たちが自分たちの作った物を棚に置き始めていた。誰かが子どもと作った紙風船を置き、若い夫婦が共同で描いた絵を掛けた。いつしか社務所の前は小さな展示場のようになり、通り過ぎる人々が足を止め、手に取り、声を交わす。噂や評価のために作品が消費されるのではない。誰かの選択の跡が、尊重された形で見える。社務所は変わった。かつては窓口であり、決定を出す場所だった。今は手を動かす場になった。
「これで、公に登録してもらおう」宮司が言った。「町の規約に、社務所を『共同制作の場』として位置付ける。誰かの未来を評価する場所であってはならないと明記する。強制ではなく、参加のルールを守るための規約だ」
航は一瞬、躊躇した。公式の手続きが、また別の規律を作るのではないかと警戒した。しかし宮司の表情は真剣だった。彼は、これまでの自分の役割を盾にしないと誓った。規約は、人々が強制を押し付けるためではなく、個々がその場で選べるようにするための枠組みであるべきだと。
手続きは静かに進んだ。町役場に申請書