運動部の倉庫で休学中の画家は季節限定の約束を守る 第3話「第2章」
倉庫の扉はいつもより重く感じられた。金属の蝶番がきしみ、湿った空気が塗料の匂いと混じって顔にまとわりつく。蛍光灯がひとつだけかすかにちらつき、長机の上には半乾きのアクリルが青緑から朱へと忙しく滲んでいた。空也はサンドペーパーを押し当てながら、夏葉が塗った斜めの刷毛目を見下ろす。指先に残る粉のざらつきが、今ここで何を壊したくないのかを告げているようだった。
倉庫の扉はいつもより重く感じられた。金属の蝶番がきしみ、湿った空気が塗料の匂いと混じって顔にまとわりつく。蛍光灯がひとつだけかすかにちらつき、長机の上には半乾きのアクリルが青緑から朱へと忙しく滲んでいた。空也はサンドペーパーを押し当てながら、夏葉が塗った斜めの刷毛目を見下ろす。指先に残る粉のざらつきが、今ここで何を壊したくないのかを告げているようだった。
「ここをもう一度、柔らかくしてくれる?」夏葉の声は低く、でも丁寧だった。頬に三本の絵の具の縞がついている。手が震えたのは、倉庫の換気扇が止まっているせいだけではないだろう。
空也はペーパーを置き、柔らかい布で刷毛目をなぞるふりをして、目だけは作品の表面に集中させた。彼の能力は物の表面に残る「痕跡」を読むこと──ただし相手の頭の中を覗くのではなく、共同で作ったものにだけ残る痕跡に現れる。色の重なり、押された指紋、漆喰のうねり。それらは言葉ではない「昨日の流れ」を語る。だが、言葉を与えれば与えるほど、その語る力は薄れていく。決めつけることは禁忌だった。
表面に、夏葉の手が一瞬だけ強く押し付けた痕があった。細い白い線が、濡れた青に裂け目のように入っている。空也にはそれが――少しだけ、遠くへ行く列車の窓の光のように見えた。離れていく何か。彼の胸が冷えた。解釈は禁じられている。以前、確信めいた言葉で他人の痕跡を述べたとき、次の痕跡が消えた。以後の数日は、まるで世界の色が遠くなったように――読み取りの感覚が麻痺した。触れると頭が痛んだ。だから、彼は沈黙を選ぶ。
「どうする? このまま強めに残す?」とだけ空也は聞いた。声には余計な重みを載せないように気をつけた。
夏葉は布を握り直し、息を小さく吐いた。「うん、でも……もう少し、柔らかく。ここは私の家のことが出やすいから。母さんに言われてることとか、そういうのを押し付けたくないんだ」その最後の言葉はあえて曖昧に置かれたまま、でも手元の動きは確かに強弱を付けた。空也はその間合いを拾って、布を細く折り返し、ささやかな波紋を作った。痕跡は深く、だがほの暗く刻まれた。
二人が黙々と作業を続けると、倉庫の外からスマートフォンの通知音が連続して聞こえた。廊下を走る足音、ドア越しに聞く断片的な笑い声。空也がちらりと外を見ると、運動場側の掲示板に、最近よく話題になる「交流ランキング」のスクリーンショットが貼られているのが見えた。名前と回数、いいね数、ペアの写真がリズミカルに並ぶ。そこに倉庫での写真が流れ込むと、二人の時間は一瞬で指標に換算される。
「ねえ、あれってさ」夏葉が声を落とした。「屋外の掲示、また新しい項目が増えたって。『作品エンゲージメント』って……私たち、入るのかな?」
空也は言葉に詰まった。入るかもしれない。だが彼は知っている。共同制作を外へ晒して点数を競うことは、作品に残る痕跡を変質させる。誰かの期待や好奇心が写真の構図を決め、口先だけの言葉が補強されれば、制作は「出来事」になり、そこで育った結びつきは脆くなる。関係を急ぐほど、共同制作は壊れるのだ──それは彼の体験であり、戒めだった。
「じゃあ、隠す?」と夏葉が続けた。眼鏡の縁に涙が光ったように思えたが、すぐに拭った。「でも、隠すってことは、隠れて作るってこと。それも違う気がするんだ。私、この倉庫で作る時間が好き。空也とも、そういう形でいたい」
空也は息を吸い込んだ。好き、という言葉は彼の心を揺らすが、解釈しない。むしろ、彼は夏葉の選択を支える方法を探した。棚から小さな木箱を取り出し、「これで部分ごとの保護をしないか」と提案する。写真に撮られても作品全体の痕跡がぼやけるよう、表面を一部だけ覆い、観られたくない箇所を守る仕掛けだ。夏葉はじっと箱を見て、ふっと笑った。
「それ、いいかも」と夏葉。二人は互いの手に触れないように、同時に木箱の角を削った。削るごとに、小さな木の粉が空気に舞って、二つの呼吸が同じテンポになるのを感じた。共同制作は無言の約束を織り込む。痕跡は深くなる。空也の視界には薄い銀の縫い目のように、新たな模様が浮かんだ。夏葉の不安と、ここで守りたいもの──それらが重なって、箱の隅に小さな影を残した。
だが、その時、扉の外から大きな笑い声と共に誰かが乱入してきた。運動部のキャプテン、橘だった。大きな肩が倉庫のドアにぶつかり、風が棚の埃を巻き上げる。
「おお、何だここは。いつの間にかアトリエ兼秘密基地になってるじゃねえか!」橘はスマホを片手に、好奇心と威圧を混ぜた笑顔で二人を見下ろした。彼の後ろには数人の部員が続き、スマホの画面が反射してまぶしかった。
「ごめん、ちょっと道具片付けたいだけなんだ。展示の申請書、もう締め切り間近だからさ」橘の声は軽かったが、その一言が二人の胸に冷たい音を落とす。交流ランキングの「作品エンゲージメント」は、校内展示として扱われれば一気に数値を稼ぐ。部員の誰かが写真を一枚アップし、話題が走れば、二人の作っているものがさらなる「コンテンツ」になってしまう。
「見せてくれよ、どうせならウチのチームのポイントにしちゃえばいいじゃん」と、後ろの一人が言った。その一言に橘がうなずき、無邪気な手つきで木箱にカメラを向けた。夏葉が一歩後ずさる。空也の胃に冷たい鉄の味が広がる。胸の奥で、痕跡の縁がざらつき始めたのがわかった。写真という行為が、痕跡の形を変え、消耗させる。
「ちょ、待って!」空也は咄嗟に手を出して撮影を止めようとしたが、橘の腕は速かった。シャッター音が、倉庫の薄い空気に鋭く響く。夏葉の息が止まる。木箱の表面で見えていた銀の縫い目が、一瞬にして細く、ぼやけた。空也はその変化を体で感じ取った。読み取れる光景が移ろい、頭の奥で痛みが走る。追って、喉の奥に酸っぱい苦味が逆流した。
「な、何してんだよ」と橘が笑ったが、その笑いはすぐに消えた。部員の一人が画面を見て呟いた。「お、これでうちのチームランキング爆上げじゃん。いいね、橘さん、ナイス発掘!」
夏葉は箱を抱きしめた。肩が震えている。透明な色の涙が指先に混じり、塗料の色と溶け合っていくのを空也は見た。彼は無言のまま木の粉を布で拭い、箱の角を押さえた。解釈を言葉にしてはいけない。だが、守るためにできることはあった。彼は箱の裏に小さな鍵穴を刻むように、丁寧に道具を当てて補修を始めた。壊れた痕跡を、物理で繋ぎ直すしかない。
橘はその様子を少し訝しげに見ていたが、やがて興味が失せたらしく、「じゃ、行くわ」と足早に去っていった。扉が閉まると、倉庫は再び静かさを取り戻す。だが静寂は以前よりも重く、どこか掃除の行き届かない部屋のように乾いていた。
「ごめん」と空也は短く言った。言葉は遅かったかもしれない。夏葉は小さく首を振った。「いや、別に……でも、やっぱり怖いんだ。見られると、私たちのここが勝手に語られちゃう気がする」
「見られても、解釈は渡さないよ」と空也は答えた。それは約束でもあり、戒めでもあった。彼はその場で、箱の内側に小さな仕切りを幾重にも作ることを決めた。外からは一つの作品に見えても、内側は小さな個室の集まりになっている。触れられても、痕