運動部の倉庫で休学中の画家は季節限定の約束を守る 第22話「第20章」
倉庫の奥、古い照明が切れたままの通路に月が差し込んでいた。板張りの床は運動靴の跡とペンキのはね跡でまだらになっていて、空也はその上に座り込んでいた。膝の上には小さな木の札がある。角が擦り切れ、以前の塗膜の上に二人の指の跡が重なっていた──夏葉と自分で半分ずつ描いた「季節の誓い」の札だ。季節限定の約束を封じるためのもの。明日の公開に備えて、彼女が置いていった。
倉庫の奥、古い照明が切れたままの通路に月が差し込んでいた。板張りの床は運動靴の跡とペンキのはね跡でまだらになっていて、空也はその上に座り込んでいた。膝の上には小さな木の札がある。角が擦り切れ、以前の塗膜の上に二人の指の跡が重なっていた──夏葉と自分で半分ずつ描いた「季節の誓い」の札だ。季節限定の約束を封じるためのもの。明日の公開に備えて、彼女が置いていった。
空也は指先で木目をなぞった。触感はざらりと暖かく、塗料の匂いが乾いた皮膚の匂いと混ざっていた。彼が呼吸を合わせると、札の表面にだけ現れる微かな震えがあるのがわかる。色ではない。音でもない。胸の奥に引っかかるような「痕跡」だ。彼だけがそれを拾える。共同で作ったものだけが、作った二人の心の痕跡を留める。空也にとってはそれが──指先から伝わる静かな音のようでもあり、古い鉛筆が紙の上を滑るときにだけ聞こえる空気の裂け目のようでもあった。
「来てくれてありがとう」夏葉が、倉庫の奥から段ボール箱を抱えて出てきた。髪には汗の名残がある。長い一日を顔に刻んだまま、彼女は札を空也の膝へ置く。同時に、ほかの面々が入ってきた。部の主将・高瀬、真琴、陽斗、茜。皆の顔には疲労と焦りが交錯している。
「公開の時間、変えられたんだって?」高瀬が口を開く。声は低く、会議室でのやり取りを反すように小さかった。「審査委員の一人が明日午後は都合が悪いって。急遽、朝イチの公開を強行するって。学校側から通達が来たよ。解除はないってさ」
その一言で倉庫の空気が締まる。朝イチ。どうにか時間を稼いで展示を隠す──という猶予がほとんど消えた。空也の胸に、札の痕跡が微かに波打つ。夏葉の息遣いが近い。二人で作ったものは、二人の呼吸が合った瞬間をまだ抱え続けている。
「明日、どうする?」茜が訊く。茜の手は箱の中のパネルに触れていて、指先に絵の粉が付いている。彼女は怒りを抑えた声をしているが、瞳は潤んでいた。「片っぱしから封印するって手もあるけど、正しいかどうかは別の問題だよ」
「公開して、こっちから説明してやるってのは?」陽斗は陽気に聞こえようとしたが、肩の力が抜けていない。「空也の能力で、夏葉の気持ちを示せば、噂も潰せるだろ。真実を見せればいい」
その言葉に倉庫の空気がさらに重くなる。誰もが知っている。空也の力のことを。二人が共同で作った物にだけ残る「痕跡」を、空也は読むことができる。だが助手席に座る声は一つの禁忌をも抱えている。痕跡を決めつけること──名称を与えてしまうことは、痕跡を消すことと同義なのだ。
空也は札を見つめた。夏葉が描いた線、彼が足した色。二つが溶け合ったところに、夏の湿気のような優しい緊張が残っている。ぼんやりとした色調が浮かぶ。それは「安心」と言うには拙く、「未確定」だと言うには優しすぎる。誰かがそれにラベルを貼れば、そこで終わる。札はただ、彼女がそこにいたという事実だけを残し、触られずに消えていく。
「晒すってことは、夏葉の選択肢を奪うってことだ」真琴が言った。彼は空也の隣に来て、膝に肘を置く。指の関節が白くなっていた。「学校が見たいかどうかとは別に、あの子のことを他人の道具にするのは違う。俺らは部員であって、検閲官じゃない」
「でも、黙ってたら黙認って言われる」茜が言い返す。「制度は結果を出せって言うだけなんだよ。公表して真相を示すのと、隠して自己満で終わらせるのと、どっちが良い?」
空也は口を開けたまま、何も言えなかった。言葉を選べば選ぶほど、札の痕跡は彼の前で薄くなる気がした。彼はその「痕跡の感触」を逃がしたくなかった。痕跡を失うことは、夏葉がその日に笑っていた粒子を奪うことに等しい。彼は幾度か、無意識のうちにその跡を追ってきた。それは彼の支えでもあり、重荷でもあった。
「見せてみてくれ」高瀬が突然言った。部長の眼差しは真剣だった。「本当にそれが証拠になるのか、俺らに見せてくれ。判断するのはそっからでも遅くない」
皆の視線が空也へ向く。重圧が密になり、空気が粘る。空也は喉を鳴らし、札を両手に持ち上げる。指先は冷たい。触れるときにだけ、夏葉の体温の残滓が伝わる。集まる面々の呼吸が、ひとつの合図のように感じられた。
「見せる」空也は小さくうなずいた。「ただし、確認だけ。決めつけはしないでほしい。これを言葉で片付けると、痕跡は消えてしまう」
「分かってる」茜は答えた。「口は出さない。証人でいるだけ」
空也は深く息を吸って視界を閉じた。彼が痕跡を読むとき、世界が少しだけずれる。色が音になり、触感が記憶の輪郭になる。札の表面にある夏葉の線は、古いラジオから漏れる夏の歌みたいに、低く、はっきりしない旋律を放った。そこには「言いかけの約束」と「終わらせる覚悟」が同居している。彼はそれを分けようとした。どちらが主体なのか、どちらが本音なのか。そうして名付ければ、そこに区切りが生まれる。区切りは痕跡を乾かす。
彼は言葉を探した。だが、胸のどこかで小さな警告が鳴った。前にも同じことがあった。痕跡を確定させようとした瞬間、札は凍りつき、彼の胸が刺すように痛んだ。痛みは記憶の一欠片を持って行った──夏葉と描いていた時の何秒か、彼女の笑い声の一部、景色のなかの青の一筋。それらはぽろりと剥がれて彼の頭の奥へ落ちた。失ったものは戻らない。消えるだけだ。
「空也、やらないのか?」陽斗が囁く。彼の声は鼓膜に小石を当てるみたいに冷たい。
空也は手を固くする。札の痕跡が押し寄せてくる。そこには夏葉が自分を守ろうとした痕跡、そして自分に見せた弱さが混じっていた。もし彼がそれを読み上げて他人に示せば、夏葉の弱さは一次元のデータになる。噂は止められるかもしれない。しかし夏葉は、自分が選べなくなる。空也はそれを知っている。能力の条件は単純で残酷だ。共同制作されたものでしか痕跡は現れない。代償は常に同じだ──痕跡を決めつけることで、痕跡そのものと、そのときの記憶の一部が消える。さらに決定的な代償がある。それは「他者の意思」を奪うリスクだ。
夏葉の目が空也の顔を見た。月光に浮かぶその瞳は微かに赤く濡れているが、笑おうとしているようにも見えた。彼女は声を絞り出した。
「……私、明日どうされてもいいってわけじゃないよ」言葉の端々が震えた。「でも、全部を誰かに"おしまい"って言われたくない。空也、あなたが見せてしまったら、私はもう自分で選べなくなる。それが怖いの」
空也の胸が締めつけられる。彼は札を抱くようにして膝へ戻した。皆の呼吸が彼の周りで揺れる。時間がゆっくり溶けたように感じられる。
「じゃあどうするんだよ」高瀬が厳しく言った。「黙ってたら制度にやられる。見せれば夏葉が壊れるかもしれない。お前は当事者なんだ。何かしろ」
そのとき、倉庫の鉄扉を叩くような音がした。皆が息をのむ。外では小さな話し声が聞こえる。廊下か、事務室の方だろうか。真琴が入口に向かって少し体を乗り出すと、携帯が震えた。画面には学校からの一斉送信が表示されている。「明朝の公開はライブ配信にて行います。一般参加は不可。審査および評価はAI解析と教員評価の複合式で、変更は認められません」全文読むと