運動部の倉庫で休学中の画家は季節限定の約束を守る

運動部の倉庫で休学中の画家は季節限定の約束を守る 第19話「第17章」

倉庫の窓は、夕陽を受けて薄く朱に染まっていた。鉄の匂い、古い木材の乾いた香り、体育館から漏れてくるゴム底の擦れる音が混ざり合い、夏の蒸し暑さを忘れさせる静けさを作っている。机の上に置かれた小さな共同作品は、空也の指跡と夏葉の筆跡が入り混じった木の箱だった。白い下地に、淡い群青と黄の筋が重なり、ところどころに貼られた布切れが折れて影を作っている。箱の縁は二人の痕跡でだけ擦れて艶を帯びていた。

倉庫の窓は、夕陽を受けて薄く朱に染まっていた。鉄の匂い、古い木材の乾いた香り、体育館から漏れてくるゴム底の擦れる音が混ざり合い、夏の蒸し暑さを忘れさせる静けさを作っている。机の上に置かれた小さな共同作品は、空也の指跡と夏葉の筆跡が入り混じった木の箱だった。白い下地に、淡い群青と黄の筋が重なり、ところどころに貼られた布切れが折れて影を作っている。箱の縁は二人の痕跡でだけ擦れて艶を帯びていた。

「見てくれてる?」夏葉が窓際に腰掛けたまま、コーヒーの缶を指先で転がす。缶のアルミが低く鳴って、倉庫の中に小さな余韻を残した。

空也は、木箱に手を置いた。右手の指先は油彩の匂いでまだ染まっている。倉庫の蛍光灯が一本切れていて、夕方の光が湿った埃を粒にして見せる。彼は能力を使う前に、息を整えた。能力は完璧ではない。共同で作ったものにだけ残る「痕跡」を読むことはできるが、その痕跡を決めつけるほど見えなくなる。急いで関係を結論付ければ、共同制作そのものが壊れてしまう。――いつも頭の中にその二つの禁止が鳴っていた。

「……少しだけ、見てもいい?」空也の声は低かった。夏葉は缶を置き、頷いた。彼女の瞳は夕陽を受けて金色に揺れる。空也は手のひらを箱の表面にかざす。冷たさが指先に伝わる――それは単なる木の感触ではなく、痕跡を探るときに伴う微かな振動だ。

痕跡は断片だった。色と温度、刷毛の滑り方、接着剤の乾いた匂い。音の残像もあった。笑い声のように二人の呼吸が重なった瞬間。だが言葉は直接ではない。空也は映像を繋げる代わりに、断片を一つ一つ受け取った。焦りそうな気持ちを胸に押し込む。

「夏葉は――『選び直す自由を欲する』って、来た」彼は言葉を選んだ。言い切らない。空也は既に知っていることを押し付けたくなかったからだ。夏葉の肩が少し強張った。彼女は箱の縁に手を掛け、爪先で木の繊維を辿る。

「そうだよね、って感じだよ」夏葉は笑顔を作ろうとしたが、声が震えた。「でも、そう簡単に『選び直す』って言えないんだ。進路のことも、家のことも、みんなの期待も。空也はその……どうしてそんなに優しいの?」

問いに答える代わりに、空也はまた箱に触れた。もっと深く読みたい誘惑があった。もしも、決定的な一行にたどり着けば、夏葉の迷いに終止符を打てる。噂や評価に消費される前に、彼女を守れるかもしれない。だが禁止が脳裏で警鐘を鳴らす。決めつければ痕跡は曖昧になる。彼は手を引いた。

「僕は、『守る』って言葉がよく分からなくなってるんだ。守るって、相手の選択を奪うことじゃないと思う。だから、押し付けたくない」空也の言葉は静かだったが、倉庫の広さに響いた。

そこへ、倉庫の古い扉がきしんで開いた音がした。体育の顧問、桐谷先生が汗だくで入ってきた。腕には封筒を抱え、眉を顰めている。後ろには副部長の泰斗が続いた。泰斗はユニフォームのまま膝を擦り、空也に視線を向けると素早く口元に手をやった。仲間の存在が、空也の胸に小さな安堵と同時に、別の緊張を呼び起こした。

「すまない。時間がないんだ。部の上から正式な通知が来た」桐谷先生は封筒を開き、紙を取り出す。文字が、白い紙の上で黒く震えている。「校舎の老朽化対策で、明後日から運動部倉庫を一時閉鎖、外部業者が入って点検を行う。全ての私物は本部の指示で撤去しなければならない。期間は未定だ」

空也の呼吸が詰まった。倉庫――彼らの共同の場、季節限定の約束を果たす場所が、いきなり期限を突きつけられた。夏の季節が、物理的に短くされるような衝撃だった。

「撤去、だって?」夏葉の手が箱の角を握りしめる。紙の端が折れる音が、微かに響いた。

泰斗が腕組みをして紙を覗き込み、口を固く結んだ。「まさか、って感じだ。体育祭前だし、スポンサーが入るって話は聞いていたけど、まさか倉庫まで……でも、これって学校側の判断だ。部の経験を消されないようにするなら、行動しかない」

桐谷先生は続けた。「我々がすぐに動くことは出来る。ただし、外部業者は案の定、全部を一掃してしまう。保存が必要なものは申請すれば審査してくれるが、時間がない。手続きを通すのに、証明と理由がいる」

夏葉はふと、箱の上に顔を近づけた。彼女の息が木箱の表面を曇らせる。箱の中に残る痕跡は、今や存在の証明でもある。二人がそこにいたこと、約束を交わしたこと――それを守るには、形として示せる何かが必要だ。

空也は箱に視線を落とし、じっと考えた。ここで何かを急いで結論づければ、箱に残る痕跡は損なわれる。だが箱そのものが無くなれば、痕跡を読み取る場は失われる。禁止は二重に彼を縛っていた。

「やれることがある」泰斗が言った。「部のみんなで、倉庫の使用権を残す petition(請願)を出す。顧問を通せば、学校も耳を傾けるはずだ。それと、箱を一時的に他の場所に移して保管する。誰かが監督してくれれば証明にもなる」

誰が監督するか、その問いが空也の胸に刺さる。自分がその役目を買って出るべきだろうか。それとも、夏葉が負担を負うべきではない。彼の能力は、共同で作ったものにだけ痕跡を残す力を持つ。箱を移せば、その場所が変わる。だが移動は、箱の構造を一時的に傷つける可能性がある。共同制作を傷付けることは、能力の代償を引き起こすリスクでもある。

「もし、僕が今ここで――今見えたことを『こうだ』って決めつけたら、箱はどうなるの?」夏葉が呟いた。質問は、空也自身が抱えていた恐れを突いた。

空也は手のひらで箱の縁を撫でた。指先に小さな振動が戻ってくる。試してみるわけにはいかなかった。彼は一呼吸置き、言葉を選んだ。「壊れる。痕跡が薄れる。僕の読みが、色や接着の位置をぼやかして、最終的に何も残らなくなる」

夏葉はその答えを黙って受け止めた。やがて、小さく笑った。「じゃあ、決めつけないで。私は自分で考える。空也はそれを待っててくれる?」

「待つよ」空也は即答した。けれども、彼の中で別の動きが始まっていた。待つという行為もまた選択である。時間を作るために彼は何かをする必要がある。倉庫の撤去通知は、季節限定の約束を時間で切り詰める。彼は自分の恐れ――決めてしまえば守れるのに、という誘惑――を抑え、行動に向ける必要があった。

「まずは箱を安全な場所に移す。僕たちが手で持っていける大きさだし、壊さないように運べれば痕跡も保てる。あと、請願だね。みんなに協力を頼む」泰斗が決意を示すように言った。彼の横顔には、仲間としての責任感が浮かんでいた。

桐谷先生は封筒を震える手で握り直し、「正式な手続きの時間を稼ぐために、申請書類を今すぐ作成しよう。ただし、こういう場合は『市民的な活動』や『文化的価値』を示す必要がある。具体的な証拠、それにあなたたちの声がいる。学生だけの訴えでは、重みが薄い」と冷静に現実を突きつけた。

夏葉が箱の前で立ち上がり、両手で箱の側面を抱きしめる。彼女の目が真っ直ぐで、少し強い光を帯びている。空也はその目を見て、自分が守るべきものが何であるかを再確認した。「ここにあるのは、私たちが一緒に作った時間だ。形だけじゃない。でも形が無くなるなら、まずはそれを守る」

箱を抱えたまま、夏葉は