運動部の倉庫で休学中の画家は季節限定の約束を守る 第18話「第16章」
倉庫の大扉がきしりと開き、冷たい秋の風が中へ滑り込む。木製の器具棚に積まれたバットやボールの匂いと、乾いたペンキの匂いが混ざって鼻を刺した。空也は足元のブルーシートの端を踏み、濡れたように光るペンキの缶を蹴らないように気をつけながら、作業台に向かった。手はいつものように絵具で染まっている。キャンバスの代わりにつなげたベニヤ板が並び、そこに彼らは「季節の壁」と名づけた共同制作の試作を貼り合わせていた。
倉庫の大扉がきしりと開き、冷たい秋の風が中へ滑り込む。木製の器具棚に積まれたバットやボールの匂いと、乾いたペンキの匂いが混ざって鼻を刺した。空也は足元のブルーシートの端を踏み、濡れたように光るペンキの缶を蹴らないように気をつけながら、作業台に向かった。手はいつものように絵具で染まっている。キャンバスの代わりにつなげたベニヤ板が並び、そこに彼らは「季節の壁」と名づけた共同制作の試作を貼り合わせていた。
「準備はこれで大丈夫?」と、萩原が倉庫の真ん中で声を張る。運動部の部長らしく背が高く、タオルで首を拭いながらも、今は真剣に板の継ぎ目を確かめている。隣には里江がいて、筆の先で薄い色をさっと引いては、その線を他の誰とも相談せずに消していた。
結衣がそっと空也の横に寄る。袖口に小さなアクリルの点がついている。彼女は季節限定の約束の相手であり、今夜のワークショップを一緒に開いた中心人物だ。結衣の手は冷たく震えていた。彼女は学生会の交流委員会にプレゼンする前に、まず参加者の反応を確かめたかったらしい。
「説明は短くする。参加する人にだけ話して、進路や評価には一切関係させないって約束を最初に取る。今日の目的はそれが可能かどうかの実験だよ」結衣の声は低いが強さがある。空也はその目を見て、胸が締めつけられた。守らなければならない約束がここにある。
中村(交流委副委員長)がクリップボードを手にして近づいてきた。彼は笑顔で言った。「いい案だ。けどさ、理事会や保護者を説得するには結果が必要だよね。何か、参加者の意図や成果を示す“指標”があると分かりやすい。簡単に——評価できるようにしようよ」
言葉はささいだったが、倉庫の空気が一瞬で重くなった。評価——空也の胸の奥が冷たく波打つ。彼は手袋をはめたまま、そっとベニヤ板の端に触れた。共同で触れ、塗り、刻まれたものだけに残る痕跡が、彼の指先に小さく震えるように返ってくる。誰かの笑い声の残り、謝罪の匂い、手の温度が混ざった指紋のようなもの。音色でも匂いでもない「断片」が、木の繊維に潜んでいる。
「評価はダメだ」と空也は言った。声は低くてもはっきりしていた。「痕跡は記録であって、評定のためのデータになんかできない。決めつけるほど、痕跡は見えなくなる」
中村は眉をひそめる。「科学的根拠は?」
空也は言い訳をする代わりに、手のひらを板の上にそっと載せた。彼が触れた部分だけ、木目が淡く光り、そこに混ざった感覚がゆっくりと立ち上がる。参加者たちの小さな音や息遣いが、まるで遠くで反響するように目に見えない線となって並んだ。
「見える?」結衣が囁く。
空也は微かにうなずいた。だが、里江が急に口を挟んだ。「これ、データ化できないと、保護者も納得しないよ。進路のことを気にしてる家も多い。証拠がないと不安を煽るだけだ」
言葉が続く。中村はクリップボードのペンを走らせながら、「一応、参加者にはサインしてもらって、そのうえで結果をパーセンテージ化する。協力の度合いとか、貢献度の数値化。これで理事会に出せる」と提案する。
空也は急に胸が苦しくなった。彼の能力は「共同で作られた物のみ」が痕跡を残すと知っている。それは不透明で、解釈を拒むことで存在する。誰かがその痕跡の意味を決めつけ、ラベルを貼ると、痕跡は反発して消える。木板の繊維から言葉が抜け落ち、代わりに空白だけが残るのだ。そして急げば急ぐほど、人は共同性を破壊してしまう。
「やめてくれ」空也は声を荒げた。「評価のために形を変えないで。急ぐのは——共同制作を壊す」
萩原がひと息つく。「でも、親や学校を無視できないだろ。結衣の言ってることは理想だけど、それで承認されなかったら倉庫の使用も——」
そのとき、倉庫の入口に影が落ちた。重たいブーツの音。石島という名の保護者代表が、コートの襟を立てて入ってきた。頬は赤く、目は硬い。
「聞いた。今日のやつ、評判になるのか?」石島は睨みつけるように中村を見た。「進路に影響があるような非公式活動なら、きちんと説明を求める。子どもの将来を壊すことはできん」
場がざわつく。中村は弁解を探し、里江は目を伏せ、結衣は肩を震わせた。空也は一歩前に出て、手のひらをベニヤ板に押しつける。彼は心臓の鼓動を板の振動として受け取り、そこに残る「約束」のかけらを探る。だが、周囲の誰かが紙に名前を書く「サイン用紙」を机の上に広げた瞬間、空也の指先に触れていた断片がいきなり崩れた。
木目が急速に白み、そこにあったはずの小さな笑いの残りや謝罪の温度が、ふっと消えた。空也の視界は一瞬にして波打ち、耳鳴りが高くなる。頭の中に黒い砂が押し寄せるような不快感。力を抜けば床に崩れ落ちそうになる。
「決めつけ――」空也は言葉を絞り出すが、息が切れる。痕跡が見えなくなるほど、その存在は薄れる。触れていた部分がただの板になり、塗りかけの色が水たまりのようににじむ。里江がわっと筆を振り上げ、急いで色を重ねてみせる。慌てれば慌てるほど、色は塗膜として表面に広がるだけで、深い記憶を繋ぎ止める繊維には届かない。
「大丈夫か?」萩原が空也の肩をつかむ。触れられた瞬間、空也の体に冷たい違和感が走る。能力を使った後の代償が、今回は明確だった。彼は頭痛と吐き気に襲われ、指先の感覚が薄れる。以前なら一晩寝れば戻ったが、今は違う。使い方を誤ると、痕跡そのものが反逆して、心の一部まで持っていかれるような気がした。
結衣が、かすれた声で言う。「空也、無理しないで。今は——このまま評価の話は置こう。やり方を変えるべきだって、委員会に言わせる」
だが中村はクリップボードを片手にまだ踏みとどまっている。「放置はできない。保護者が納得しなきゃ、校舎側が認めない。証拠がなければ——」
石島が口を挟んだ。「証拠というのは分かりやすいものだ。あなたたちの言ってる“痕跡”なんて、保護者には見えん。科学でも説明できない奇妙なことを子どもにやらせるのは危険だ」
里江はふいに板に顔を埋め、すすり泣いた。彼女はこれまで参加者として出した色や形が、勝手に評価されるのが怖かった。共同制作が「評価のため」に分断されることを、自分は一番嫌だと知っていた。
その混乱の中で、空也は立ち上がった。足元がふらつくが、声は思いのほかはっきりしていた。「僕が——見せる。だけど条件がある」彼は息を整え、結衣の方を見た。「参加した全員が、今日の実験の映像と記録を外に持ち出さないと誓うこと。評価のためのラベリングをしないこと。そして、合意のない人のために痕跡を使わないこと。もし一つでも破るなら、僕はこの能力を使わない。失う代わりに、僕がこの倉庫の扉を守る」
言葉の端で、彼は自分が何を差し出せばいいかを知っていた。能力を守ることは、結衣との季節限定の約束を守る手段だ。しかし同時に、それは自分自身の一部を賭けることでもある。観衆の視線が彼に集まる。中村は黙り、石島は眉をひそめ、萩原は口を結んだ。
結衣が静かに、しかし確かに頷く。「私、誓う。ここにいる人みんなに同じことを約束させる。参加した人全員の合意がなければ、どんな痕跡も外に出さない。私が責任を持つ」
里江は顔を上げ、涙で