運動部の倉庫で休学中の画家は季節限定の約束を守る 第16話「第14章」
倉庫の天井からぶら下がる裸電球は、わずかに蛍光の黄色を滲ませていた。湿った木のにおいと、古いスポンジにしみた消毒薬の残り香が混ざる。外ではまだ雨が降っている。鉄の扉の向こう、運動場は夜の水たまりで反射しているだけだった。
倉庫の天井からぶら下がる裸電球は、わずかに蛍光の黄色を滲ませていた。湿った木のにおいと、古いスポンジにしみた消毒薬の残り香が混ざる。外ではまだ雨が降っている。鉄の扉の向こう、運動場は夜の水たまりで反射しているだけだった。
空也は、手袋をはめずにペンキの缶を指でつついた。指先に伝わる冷たさが、ふと遠い季節のことを呼び戻すようで嫌だった。缶の内縁に残った群青色を、僕は知らないはずだと自分に言い聞かせる。だがそれがどんな夜に混じっていたか、ほんの一片だけが爪先にざらつくように残っている——それが代償なのだと彼は思った。
「来てくれてありがとう。こんな時間に、狭いところですまない」
宮本海斗の声は倉庫の端で反響した。体育会系の眉と、彼らしい真っ直ぐな視線。手首には古いリストバンド、彼の汗の匂いが紙粘土と混じった。橋本結は腕組みして、床に置かれた段ボールを蹴った。白石陽菜は紙のバッグを抱え、そっとそこからスケッチブックを出した。
「説明してくれ、空也。あんまりよくわかってないんだよね、ぶっちゃけ」
結がすなおに言う。体育館の空気に慣れた人間は、本質を簡潔に欲する。空也は息を吸って、倉庫の真ん中に置かれた古い作業台の上に無地のキャンバスを置いた。布地の上に、彼の指先が軽く触れる。触覚がじわりと疼いた。能力が反応するのを、彼は体の内で確かめた。
「これは、共同でなにかを作ると、その物に『二人の痕跡』が残るんだ。言葉じゃなくて、色とか、筆致とか、材質の選び方みたいなもの。僕はそれを読むことができる。けど——」
言葉はそこで止まった。説明する行為自体が、能力の条件を傷つけることを彼は知っている。決めつけるように説明すれば、痕跡は薄れていく。彼は自分の喉にかかった干渉を飲み込んだ。
「今回、倉庫を変えたいんだ。ここを、誰かの選択を留めておく場所、季節ごとに入れ替わる『共同の記録庫』にする。僕一人の力で守るんじゃなくて、みんなで管理する仕組みに——」
陽菜がスケッチブックを閉じ、静かに顔を上げた。目が光る。体育との差を埋めるような視線だ。
「なにその大仰な話。で、どうするの?」
海斗は肘をついて作業台をのぞきこんだ。そこに置かれたキャンバスは、普通ならただの白布だ。だが空也の指先が触れると、表面に微かな凹凸が生まれるように感じられた。触覚の残像が、彼の手とキャンバスの間にひそかに結びつく。
「デモをする。二人で一緒に描いて、僕がその残響を読み取る。見てもらえばわかる」
海斗が若干のためらいを見せた。運動部の倉庫で絵を描くことに照れがあるのだろう。しかし、彼は了承の挨拶もそこそこに、白いTシャツのままキャンバスの前に立った。手に力を入れ、筆をとる。
空也は最初に海斗の手を取り、キャンバスに触れさせた。二人の指の温度が混ざる。筆を沈め、勢いよく横に走らせる。だが海斗は早く、結論を出すように描いた。線は速く、色の選択も単純だ。運動部的な直感が絵に出る。
「もっとこうだろ、空也。みんなでやるなら、わかりやすくしようぜ」
海斗の声には善意があった。守る対象を早く決めて確定させたい、という気持ち。だがその速度が、共同制作の呼吸を壊していく。
空也は読み始めようとした。筆跡の層、色の混ざり方、微かな息遣い。だが、指先に冷たいものが広がるのを感じた。視界の端で色彩が薄くなり、音が遠ざかる。彼は「決めつけ」の圧力が来るのを知っていた。海斗が先に意味を定義してしまうほど、痕跡は見えなくなる。
「違う、もう一度——」
彼は言葉を発した瞬間、頭の芯に鋭い痛みが走った。目の前の絵が溶けていく。次に来たのは、記憶の空白だった。三日前の午後、彼が誰かと笑っていたはずの光景の色が抜け落ちていた。袖の縞模様。聞こえていたはずの言葉のリズム。彼はそれを掴もうと手を伸ばすが、掌の中で砂粒が零れるように、細部が消えていった。
「空也?」
陽菜の声が近づいた。彼は自分の名前を聞いてようやく現実に戻る。額の汗が冷たく固まっている。胸が激しく上下した。
「……無理だ。急ぎすぎると駄目だ。読み取れない、見えない」
空也は震える声でそう言った。海斗は眉を寄せ、悪いことをしたように肩をすくめる。
「すまん。俺、早まったか」
「あなたのペースで、じゃないと駄目なんだ」
陽菜は静かにカップに入った紅茶を空也に差し出す。紙コップの縁が彼の唇に当たり、温度が体の奥に入っていった。彼は呼吸を整える。痛みは引いたが、頭の片隅に空いた穴がまだある。そこにこだまするのは、さっき見失った細部の欠片だ。
「今のは、説明にならない実演だったね」陽菜が言った。「それでも、見せてくれた。急ぐと壊れるっていうのは、本当にそうなんだ」
結が腕を組みながらテーブルの脚を蹴った。倉庫の棚の影に、古い絵の破片や、紙袋に入った木彫りの小片が散らばっている。それらは誰かの手で残された『共同制作』の断片だった。色あせ、年輪のように層を成している。
「それにしても、なんでこの倉庫にそんな力が結びついてるんだ? ただの道具置き場だろ、ここは」
海斗の問いに空也は答えを持っていた。だが口にするには、今夜見せた不完全なデモがある。彼は腰に手を当て、倉庫の角に積まれた段ボールを指さした。そこには、古いファイルと、黄ばんだ写真が入っている。
「見てほしいものがある」
空也は引き出しから一枚の写真を取り出した。写真には十数年前の倉庫が写っている。若い顧問と生徒たちが、笑いながら大きな布を掲げている。布の角には、マジックの文字が散らばっている。裏にはタイプされた紙片が貼ってあった——「共同記録実証実験:第7期」。小さな公印が一つ、かすれている。
「学校が、ここで実験をしていた。'選択の痕跡'を集め、何らかの評価に用いた記録がある。つまり、制度として倉庫の残響を利用しようとした形跡があるんだ」
陽菜の指が写真の縁をなぞった。指先に残る感触は、古い紙のざらつき。彼女は顔を曇らせた。
「そんなことをしてたの?」
「ただの過去のプロジェクトだったかもしれない。でも、記録の中には、強制的に絵を作らせ、その痕跡を評価に用いた例があった。部活の配属や推薦を決める口実にされていたらしい」
結が吐き捨てるように笑った。「最悪じゃん。噂や成績だけで人を決めるんだから、物に残る『痕跡』を評価にしたらどうなるか、想像つくけど」
海斗が写真を凝視する。彼の顎に薄い影が落ちる。そこに写る若い顧問の笑顔は、今の顧問とはどこか違って見える。空也はさらにファイルをめくった。黄ばんだ報告書の中には、参加者の名前や、被験時の感情表現の後追い調査が記されていた。あるページで彼の指が止まった。
「——この『実証実験』の一部は、倉庫の物的痕跡を外部機関と共有していた。写真、素材、手記。具体的な運用例として、学内の人材分配に用いた記録がある。被験者のひとりは、進路が変えられたという訴えを出している」
海斗の表情が固まる。空也は心臓が早鐘を打つのを感じた。制度が、弱い立場の人の選択を奪っていたという事実だ。噂の消費、その後ろにある見えない手。彼は、自分の能力が単に個人的な奇跡ではなく、