運動部の倉庫で休学中の画家は季節限定の約束を守る 第15話「第13章」
夜風が運動部の倉庫の鉄扉をくぐり抜け、古いロッカーの隙間から錆びた金属の香りと、乾いた油絵具のにおいを攫っていった。空也はキャンバスの前に座り、太い筆をゆっくりと落としては、また拾った。指先に残る絵具の感触が、いつもより冷たく感じられる。窓の外、街灯に照らされた校庭の人工芝が灰色の帯を引いていた。
夜風が運動部の倉庫の鉄扉をくぐり抜け、古いロッカーの隙間から錆びた金属の香りと、乾いた油絵具のにおいを攫っていった。空也はキャンバスの前に座り、太い筆をゆっくりと落としては、また拾った。指先に残る絵具の感触が、いつもより冷たく感じられる。窓の外、街灯に照らされた校庭の人工芝が灰色の帯を引いていた。
「まだいるか、空也くん?」
入口の方から低い声がした。足音が砂を踏むように静かに近づく。扉の開く音が、倉庫の木板にこもって響いた。来訪者は交流委員会の委員長・椎名晴斗だった。襟元のジャケットに小さな名札が光り、手には古びた封筒を握っている。彼の顔は相変わらず薄く疲れていたが、疲れ切っただけの人間の肌ではない、悔恨と覚悟が刻まれていた。
「こんな時間に。楓ちゃんは?」椎名は軽く首を傾げる。楓。空也の季節限定の約束の相手、紬楓(つむぎ・かえで)のことだ。空也は筆を置き、キャンバスを指でなぞった。そこに残るのは、二人で描いた小さな円──約束の印だ。
「今日は来てない。遅れてるだけだよ」空也の声は紙やすりのように乾いていた。彼はキャンバスに自分の息を吹きかける。絵具の匂いが胸に刺さった。
椎名は封筒を差し出した。ざらついた紙の端に、黄ばんだ新聞の切り抜きと、直筆のメモが挟まれている。封筒を開けると、紙の匂いの向こうに昔の雨の記憶のようなものが立ち上った。新聞記事は十年前の小さな見出しと写真で、運動部の名前と「事故」「失踪」「責任追及」といった言葉が並んでいた。写真の中では、若い教師と生徒たちが笑いながらポーズを取っている。あの笑顔のどれかが、時間にえぐられて消えたのだ。
「読んでくれ。これが制度の始まりだ」椎名が静かに言った。彼の声には命令の色が混じっていたが、ものを告げる者のそれでもあった。空也は紙を受け取り、目を走らせた。写真の隅に貼られた手記の抜粋。鉛筆で震える字が並んでいる。
──あの日、私たちは"見えないもの"を放置した。若さの過ちと嘘が重なり、ひとつの命が引き裂かれた。私たちは防ぐためにルールを作った。誰もが選べるようにではなく、選べないようにした。安全の名の下で、選択を奪った。
空也の指の先が、ページの端で震えた。文字は平坦なのに、言葉の熱量が骨に刺さる。椎名は封筒の中のもう一枚、薄い黄紙を取り出した。それは椎名自身の手で書かれたものだった。短く、詫びと説明が並んでいる。手紙の最後に、椎名は「私は止められなかった」と赤い丸で印をしていた。
「制度は最初、守るための手段だった。だけど、守るという名の枠が、いつしか個々の選択を塗りつぶしてしまった。楓ちゃんの件を通して、君たちが見せてくれた――あれが良いか悪いか、委員会だけで決めることではなかったはずだと気づいたんだ」椎名は言葉を絞り出すように続けた。
空也は目を閉じた。椎名の語る"制度の起源"は、単なる冷たい管理ではなく、誰かの喪失から生まれた苦悩だということが見えた。怒りだけで片づけられないものがそこにある。だがそれは同時に、制度を変えるための理由でもあった。だがどうやって――。
「だから、君にこれを持ってきたんだ」椎名は倉庫の隅に置かれた木箱に手を伸ばした。木箱の表面には、かつて二人が書いたような淡い螺旋と、楓の指の跡が残っている。季節の数だけ塗り重ねられたペイントの層は、指先で触れると柔らかく、温度を持っていた。
空也の胸が締めつけられる。あの木箱は二人で作った初めてのものだった。共同で形にしたからこそ、彼の能力はそこに痕跡を読み取ることができた。共同制作にだけ残る"気配"。けれど彼は、この痕跡を決めつけて解釈することができない。決めれば見えなくなるというルールを、彼は何度も経験していた。画家としての本能で解釈したくなるのに、解釈=視界喪失という代償が待っている。さらに、共同制作を急いで作れば、形は壊れ、痕跡も失われる。二つの禁忌が彼を縛っていた。
「見せてくれないか、どんな気配が残っているか」椎名の声には好奇心と疲労と、そしてどこか祈りのようなものが混じっていた。空也は一瞬ためらった。触れれば、また何かを失うかもしれない。だが楓のため、約束のため、彼は手を伸ばした。
手袋を外し、指先が木の冷たさに触れると、さざめくような小さな音が耳の奥で鳴った。色ではなく形でもなく、温度でもない、薄い振動。楓の笑いのリズムと、彼女が固く握った手の感触、季節の匂いが重なって、空也の胸に一枚の薄い膜のように貼りついた。彼はそれを「読む」と思った瞬間、視界の色が一気に抜けていくのを感じた。キャンバスの青が白になり、絵具チューブのパッケージの赤が灰色に溶けた。色覚が、蜜を吸われたように消失した。
「――っ」空也は息をのんだ。色がない世界は、水に浮かぶように重力を変える。絵の具の匂いだけが鮮烈に濃く感じられ、脳がその匂いを色で補おうとする。椎名が空也の肩を掴んだ。
「大丈夫か!」椎名の声が割れる。空也は瞼の裏に残る楓の螺旋を手探りで押さえ、深呼吸をした。いつものように色はすぐには戻らなかった。視界が戻るまで数分、長く感じた。椎名は空也の手を離さず、無言でそっと木箱の表面を撫でた。
「決めつけた。解釈を与えたら、見えなくなる」空也はやっと絞り出した。声はかすれていた。椎名は小さくうなずくが、その表情には別の決意が宿っていた。
「わかってる。だからこそ、委員会も考え直している。だが、時は待ってくれない。明朝、交流委員会が倉庫の一斉検査を行う。すべての"私物"がリストアップされ、正式な登録がないものは回収される。保存される名義は委員会だ。――事実上、君たちの痕跡も封印される」椎名の言葉は冷たく、だがそれは嘘ではなかった。
空也の心臓が沈む。もし木箱が回収されれば、二人で作った痕跡は物理的に手元から離れ、検査や保存という名の下にアクセス不能になるだろう。能力が読み取れるのは協働で作った"物"に残る気配だけだ。物が封印されれば、季節限定の約束は形を失う。
「それを、どうするつもりだ?」空也は静かに問うた。倉庫には二人の呼吸だけが満ちている。外では風がフェンスに当たって小さく鳴った。
椎名はふっと笑ったように見えたが、その笑いは笑いではなかった。「君たちに選ぶ機会を残すために、私はあえて告げに来た。委員会の誰もが賛成しているわけではない。だが規則として決まっている。回収を中止するには、正面からの議論が必要だ。君たちの物を守るには、君たち自身が"それは個人の選択だ"と声を上げるしかない。だが、それをやれば、君たちは公に晒される。噂は一気に拡散するだろう。君たちが望む場所で、望む形でそれを行うなら、私は協力する。だが僕にできるのは背中を押すことだけだ」
空也は、絵筆を掴む。指先が再び絵具に触れると、感覚が戻る。色が甦るとき、胸の奥に小さな刃物が刺さるようだった。彼は思い出す。能力の代償を知っていながらも、これまでに何度も「確かめる〉」ことを選んでしまったことを。色を失って初めて、解釈する自分の傲慢を思い知った。共同制作の痕跡は、二人の時間の蓄積であって、空也の単独の結論に屈するものではない。それでも、守りたい。
「検査は明朝だ。