市民プールで完璧主義の生徒会長は本音を言う練習をする 第14話「第一部幕間」
朝の光が屋内プールの高い窓から斜めに差し込み、水面に小さな筋を描いている。塩素の匂いが鼻の奥に残り、金属の脚立が床にわずかな振動を伝える。朝倉澄はタイルを一列ずつ擦るスポンジをゆっくりと動かしながら、手順通りの線動作を繰り返していた。彼女の制服の袖はたしかに濡れていても、襟元は整い、髪の毛は一房たりとも逸れていない。完璧であることは、澄にとってまず──安全であることだった。
朝の光が屋内プールの高い窓から斜めに差し込み、水面に小さな筋を描いている。塩素の匂いが鼻の奥に残り、金属の脚立が床にわずかな振動を伝える。朝倉澄はタイルを一列ずつ擦るスポンジをゆっくりと動かしながら、手順通りの線動作を繰り返していた。彼女の制服の袖はたしかに濡れていても、襟元は整い、髪の毛は一房たりとも逸れていない。完璧であることは、澄にとってまず──安全であることだった。
「ここ、もう少し細かく目地を擦ってください。左腕の角度が違います」
澄の声は端正だ。副会長の田端蓮が立てた脚立の上で笑いながら返す。蓮は手慣れた様子で木製の小さな札を彼女に差し出した。先端にはまだ鉛筆線が残り、白い紙やすりの粉が周囲に舞っている。
「できたよ。朝倉、これ、試してみよう。前に言ってた――一緒に作ったものにだけ残るやつ、あれの確認をしたいんだ」
澄は札を受け取った。木の目が手のひらに温かく感じる。二人で一枚ずつ、表面をなぞるように指を移す。澄の胸がほんの少しだけ早鐘を打つのを感じたが、それを以て行動に変えることはなかった。彼女はいつも間合いを測る人間だ。だが今は、練習のために「間合いの外側」に立つ約束をしている。
蓮が先に口を開いた。「ルールは変わらない。決めつけないこと、急がないこと。今は観察だけ。外野の評価や噂は持ち込まないでほしい」
「わかってる」
澄は答え、その声にたしかな決意を含ませた。二人で刻む小さな刻印が、ほんの一瞬、木目に沿って揺れたように思えた。澄はそれを、匂いのようなもの、遠慮がちな熱の気配のようなものとして受け取った。蓮の呼吸の仕方、手の力の入り方が伝わる。言葉ではないが、蓮が最近悩んでいることがあるらしい、という断片だけが浮かんだ。
「家のことか?」澄は思わず問いかけるように口を動かしかけた。言葉として確定させれば、これが確かな事実になる。だが同時に、脳裡で何かが冷たく警笛を鳴らした。
「……決めつけない、だろ」蓮の笑いは柔らかいが、注意を含んでいた。「今はただ、触ってみただけでいい。解釈は置いておこう」
澄は吸い込んだ息をゆっくりと吐いた。解釈した瞬間、これが消えるのだという危うさを彼女の中の経験が告げる。だが、完璧主義の癖は厄介だ。分からないままにしておくことは、彼女にとって未整理のノートを抱えたままにすることと同じだった。確かめたくなる衝動はいつだって強い。
その時、プールの入り口近くで金属音が鳴った。地域の施設係、藤原が書類を手にして現れた。彼は塗装のサンプルを掲げ、にっこりとした顔で言う。
「朝倉さん、田端さん。改装ボランティア、本当にありがとう。ところで――市役所から言われてね、今回の改装で生徒と市民が作る作品は、博物館展示の候補に挙げたいそうだ。取りまとめと展示契約の確認をしてほしい。展示用のサンプルは今日持っていかないと、手続きが始まってしまう」
言葉は事務的だが、その重さは澄の背筋に伝わる。展示、契約、手続き。言い換えれば、二人の手から生まれる小さな痕跡が、制度の帳簿に載せられる可能性があるということだ。澄はぷつりと、呼吸の一部を失ったように感じた。
「公共の場に出すつもりですか?」澄の声は平静を装っていたが、手がわずかに震えた。彼女は札をぎゅっと握る。爪が木肌に食い込む痛みが現実を戻す。
藤原は肩をすくめる。「住民の参加を評価する好事例として紹介したいらしい。地域振興の資料にも使える。保全のためにニスをかけたり、作品登録をしたり、多少の加工が入る。もちろん、学校の承認が必要だ」
「加工……」澄が反芻する。ニスをかけるという行為、光沢を与え外形を固定するということは、物理的に何かを封じるように思えた。触感が変われば、微妙な匂いは消えるかもしれない。澄の中で、能力の直感がさざめき始める。
蓮が札を持ち上げ、にやりと笑った。「やってみるか。展示されるほどなら、効果も確かめられるだろう。ただし、展示用のサンプルを作るのは急ぎだ。人も集まるし、数を揃えなきゃならない。せいぜい今日中に三十枚は必要だ」
「三十枚──」澄は言葉を飲み込んだ。急げば急ぐほど、共同制作は雑になる。蓮の言葉に含まれる躊躇いを、澄は見逃さなかった。二人で作る「痕跡」は、固有のテンポと間合いを守らないと壊れる。澄はその条件を知っていたはずなのに、展示の話が出た瞬間、自分の内面で計算が始まった。「公共に出る機会」と「訓練の場」を同時に手に入れられるという期待――それは危うい釣り合いだった。
「人数はいる。村上も来てるし、他の会計も手伝うって言ってる。仕事を分担すれば、テンポは保てるんじゃないか」蓮は肩越しに澄を見た。自分で決める彼の目つきは、以前よりも決意が強い。澄は一瞬、仲間の自律を喜ぶ心と恐れが交錯するのを感じた。仲間が主体的に動くのは必要だ。だがその主体性が、制度の手に渡ることもある。
作業は始まった。三人、四人と増えるたび、作る速度は上がる。手のリズムは不揃いになり、誰かがふざけて彫ることもあれば、誰かが急いでやすりをかける。澄は最初、指示を出していたが、徐々に口をつぐんだ。口を出せば「完璧」に戻る。口を出さなければ、共同の時間を守るしかない。
途中で澄は一枚の札を手に取り、無意識に「蓮は私に好意を持っている」と心の中で定義した。言葉にせずとも、決めつけは起きる。次の瞬間、札の表面に感じていた熱の気配がするすると薄くなっていくのを澄は感じた。木目がただの木目に戻り、瑞々しい匂いが消え、温度の残像が消失する。彼女の胸を何かが締め付けた。
「朝倉、どうした?」蓮の声はすぐそばにあったが、澄は首を振るだけだった。決めつけた言葉は吐き出していない。なのに消えた。それが禁止の鋭さだ。澄は恥ずかしさと怒りで顔が熱くなる。怒りは自分自身に向けられた――完璧にしたいという欲望が、共同の痕跡を壊したのだ。
そのとき、小さな音がして、作業台の一角で彫刻刀が滑った。慌てて手が伸びるが、力が入れば入るほど木が裂けやすくなる。急いで数をこなそうとしたため、二枚の札の繋ぎ目に小さな割れが生じ、片方がぱきりと折れた。乾いた骨のような断面が露出する。
「やっちゃった……」村上祐里が白い息を漏らす。彼女は掲示板に名前を出されたことを思い出させる顔つきで、手元の破片を見つめた。澄は、破片に手を伸ばして拾い上げる。折れた木は冷たく、何も残っていない。匂いも温度もない。共同制作が壊れる代償は、たしかにこうして現れる。
蓮は黙って破片を見たあと、澄に向き直る。「急がせてごめん。俺が――」と言葉を飲み込み、代わりに小さく笑った。「でも、これでわかったこともある。痕跡は、公開されるだけで消えるのかもしれないし、加工で消えるのかもしれない。あるいは、数を揃える過程そのものが駄目なのかもしれない。どれにせよ、今のまま市に渡したら、何かを失う可能性が高い」
藤原が書類をテーブルに置き、ため息交じりに言った。「正直に言うと、保存処理は必要なんだ。展示は長期に渡るし、素材の劣化は避けられない。だが、そういう意味では『痕跡』のような微妙な感覚は反映しにくいかもしれないね」
澄は札を握り直した。手のひら