小さな出版社で雨宿りの常連客は恋より先に自分を許す 第9話「第8章」
雨音が窓ガラスを叩く。出版社「春野堂」の奥の作業机で、椿は濡れた指先をこすり合わせながら、柿色の紙片をじっと見つめていた。綾乃が朝からせっせと切り抜いたフライヤーだ。インクの香りと紙のざらつき。椿の掌に残る、ほんのりとした湿り気。外はまだ冬の名残りの冷たい雨が続いている。
雨音が窓ガラスを叩く。出版社「春野堂」の奥の作業机で、椿は濡れた指先をこすり合わせながら、柿色の紙片をじっと見つめていた。綾乃が朝からせっせと切り抜いたフライヤーだ。インクの香りと紙のざらつき。椿の掌に残る、ほんのりとした湿り気。外はまだ冬の名残りの冷たい雨が続いている。
「もう少しでできるよ、椿さん、配りに出る?」と綾乃が言った。細い眉を少し寄せて、でも笑顔を崩さない。彼女は小さな募金箱にシールを貼り、イベントの段取りをノートにびっしり走り書きしている。椿はそれを見て胸の奥がざわついた。綾乃は自分の判断だけで動いた。小さな出版社を守るために、彼女は自腹を切り、近所の書店に頭を下げ、路地の掲示板に手書きで貼り紙をした。
「私、やれることからやるって決めたの。数字ばかり見てたら、何も始まらないから」と綾乃は言う。声の端に疲労はあるが、諦めはなかった。
椿は指でフライヤーの端を撫でた。共同制作にだけ残る「痕跡」を読む能力が、掌の感触に反応する。けれどここで自分の思い込みが入ると、痕跡は見えなくなる。先週、それで痛い目を見た。椿は自分の恐れを、相手の言葉や行動にあてはめ、勝手に「正しい答え」を見つけたつもりになった。結果、共同制作の途中で関係を急ぎ、信頼の紙が破れた――目が眩むような喪失感だけが残った。
「どうするの?」綾乃が急かすように訊いた。雨の音が二人の間を埋める。
椿は深く息を吐いた。「僕が配るよ」
言葉は短かった。けれど椿の心臓が速く打った。能力に頼らず、自分自身で人と向き合う選択。綾乃は目を細め、そっと頷いた。
「待って、でも――」綾乃の手元のスマホが震えた。画面を見ると、地方のブログの見出しが一行飛び込んできた。〈小さな出版社、来場数伸び悩み〉という文字と、冷たい数字。波評体系――人々の評判を数値に還元する仕組みが、既にこの町でも働いている。記事は無造作にイベントを「評価」し、協力先の取引先に送られる。椿はその瞬間、背筋が凍るのを感じた。
「くそ……」小山が奥の棚から顔を出した。編集長だ。彼の表情は普段より硬い。「あの指標が上がらないと、流通側が企画に金を出してくれない。俺たちだけではもう限界だって、二回も催促来てる」
綾乃は唇を噛んだ。「でも、だからって待ってもらえるとは限らない。最初は小さくてもいいって、町の人に伝えたいんだよ」
椿は考えた。能力を使えば、誰が何を本当に思っているかの「痕跡」を探れる。しかし条件がある。二人以上が共同で作ったものにだけ痕跡は残る。しかも、痕跡を「そうだ」と決めつければ、それは見えなくなる。急いで仕上げれば、共同制作は脆くなる。今、目の前のフライヤーは綾乃と自分の共同作業だが、そこに「成功」を決めつけた瞬間、椿は何かを見失うだろう。
小山は腕組みをした。「数が必要だ。組織は数字で動く。俺も分かってる。だが――」
「数じゃない人もいる」綾乃が遮った。「椿さん、外に出てくれない? 手作りのフライヤーが飛ばされるの、見ててほしい」
冷たい風がドアのすきまから入ってきて、フライヤーの一枚がめくれた。紙は薄く、祭りの景色を描いたイラストがにじんでいる。綾乃はそれを掴み直し、椿の手に差し出した。
椿は躊躇した。能力で雨のような人の気配を「測る」ことはできる。だが彼はもう学んでいる。測ることで相手を定義してしまっては、それは縛りになる。綾乃は自分の力で人を動かしているのだ。椿はそれを手伝うべきだ。
「行こう」椿は言った。
外は小雨になっていた。路地に出ると、手作りのフライヤーが風にあおられて舞う。ある老婦人が猫のように拾い上げ、くすりと笑ってポケットにしまった。向かいの喫茶店の窓に飾られたフライヤーを見て、若いバリスタが手を振った。椿は一枚ずつ手渡しながら、誰の顔にも評価の二文字は読めなかった。ただ短い会話、渡された紙の温度、指先に残る紙粉。人の輪が生まれている。
それでも波評体系は町を覆っていた。午後になると、流通の担当者から短い電話が来た。「当日の来場予想を教えてほしい」と。椿は口ごもった。予想は数で計られる。綾乃は電話を受け、端的に答えた。「わかりません。でも小さな集まりで、その場で作るものがあります。どうしても数が必要なら、厚みのある来場者数じゃなくて、参加の証を出します」
電話の相手は一瞬黙り、やがて冷たい声で「社内基準が」と言った。椿はその「基準」という言葉に腹が立った。だが綾乃は動揺しなかった。彼女は募金箱を差し出し、近くを通る高校生に声をかけた。「紙を折って一ページ作らない? そのページはあなたの声になるよ」
高校生は照れくさそうに座り込み、椿と綾乃の隣で紙を折った。二人の指先が接する。共同制作は、即席のワークショップへと変わる。周囲の人々が興味を示し、少しずつ椿と綾乃の周りに椅子が増えていった。雨が小やみになるにつれ、空気に温度が戻るようだった。
椿は、そっと能力に手を伸ばした。触れたのは、綾乃と自分が同時に折った一枚の紙だ。そこに残る痕跡を覗こうとした。だが頭の中で、無意識のうちに「これが成功の合図だ」と決めつける瞬間があった。指先に鋭い寒気が走り、視界がふっと曇る。痕跡は消えた。決めつけが、痕跡を閉ざした。
「あっ」椿は息を呑み、紙を握りしめた。周りの会話が遠くなる。自分がまた、早く結果を出そうとしていたことを自覚した。小山の顔が曇る。綾乃は椿の変化に気付き、静かに手を伸ばして彼の指を取った。
「椿さん、見ようとしないで。感じて」と綾乃が囁く。彼女は、椿がいつも頼っていたものよりも、ずっと単純なやり方を教えてくれた。名前をつけず、評価の尺度で測らずただ隣にいること。椿は息を整えた。
すると不思議なことに、何かが少しずつ戻ってきた。痕跡は言葉にならない温もりとして、紙の繊維に残っている。だがそれは「恋」か「友情」かといった明確なラベルではない。人がその場で笑い、手を動かし、声を出した音の混ざりだ。椿はその断片を押し付けず、ただ手で感じ続けた。決めつけなかったから、見えたのだ。
そのとき、路地の向こうから子どもの声がした。「チラシ、ちょうだい!」小さな手が差し伸べられ、子どもは濡れた靴で走り寄ってきた。目がきらきらしている。椿は一枚渡すと、子どもはぺこりと頭を下げていった。雨に濡れた紙は、子どもの掌でふやけかけている。椿は微かに笑った。その笑顔が、どんな数字よりずっと確かな予兆に思えた。
しかし、功を焦れば壊れるという代償はまだ残っていた。夕方、急に配達予定だった取次の連絡が来る。契約書の条項を読み上げる声が、電話越しに冷たく響いた。「来場者数が基準に満たない場合、次回の取引条件を見直します。データベースですでに低評価が付いています」。その一言が、小さな出版社の背筋に鎌のように刺さった。
綾乃は不意に沈黙し、手の中の募金箱をぎゅっと握った。周りの人間がそれぞれ顔を伏せる。椿は胸が締め付けられるのを感じた。今ある温度を守るには、まだ見えない大きな壁が立ちはだかっている。波評体系は単なる悪口ではなく、取引と信用を決定する機械になっているのだ。
小山が唇を真一文字に閉じ、机の上の古い誓約書を指で