小さな出版社で雨宿りの常連客は恋より先に自分を許す

小さな出版社で雨宿りの常連客は恋より先に自分を許す 第20話「第18章」

夜の工房は、いつもより静かだった。卓上ランプの温かな円が、散らばった紙と糸と指先を拾い上げる。糊の匂い──新しい本が生まれる匂いが空気を満たしていた。誠は針と麻糸を持ち、背表紙の小さな穴をひとつずつ狙う。針が紙を抜けるたびに、微かな擦れる音がする。向かいの椿はページを並べ、角を揃える。彼女の髪先に灯りが反射して、金属のように冷たい光が走る。

夜の工房は、いつもより静かだった。卓上ランプの温かな円が、散らばった紙と糸と指先を拾い上げる。糊の匂い──新しい本が生まれる匂いが空気を満たしていた。誠は針と麻糸を持ち、背表紙の小さな穴をひとつずつ狙う。針が紙を抜けるたびに、微かな擦れる音がする。向かいの椿はページを並べ、角を揃える。彼女の髪先に灯りが反射して、金属のように冷たい光が走る。

「ここで、いっしょに綴じる?」椿が言う。声は図書室の奥の本のように柔らかいが、どこか震えていた。

誠は無言で頷き、彼女の隣に寄る。二人の手が同じページを押さえると、紙の表面に触れた温度が伝わった。その瞬間、小さな変化が起きる。彼らの共同作業でしか現れないもの──誠はそれをいつも「痕跡」と呼んでいる──が、ページの間にうっすらと浮かび上がった。左端に黒い点のようなものが集まり、形にならない言葉の瓦礫を残した。

「見える?」椿の指先が迷いなくその痕に触れる。触れられた紙が湿るような気がして、誠は手を少し引いた。だが、彼女はそのまま笑った。笑いに含まれるのは安堵ではなく、受託のようなものだった。

「これ、私の――欠片なの。忘れていたはずの、小さな夜の断片」椿は小さな紙切れを取り出した。薄い便箋で、何行かの走り書きがある。文字はかすれている。彼女はそれを誠に差し出した。「一人で持っていると重すぎるから、そこに置いていい?」

誠は紙を受け取る。紙は湿っていて、噛むとわずかに塩のような味がしそうな匂いが立った。彼は紙を折り、共に作る本の一ページとして差し込む提案をした。「一緒に綴じれば、痕跡が残る。永久にはできない。決めつけるほど見えなくなるって前に言っただろ」

椿ははにかんだように笑い、首をすくめた。「それでも、お願い。誰かと並べるなら怖くないかもしれない」

二人は綴じた。縫い合わせるたびに糸が新しい関係を紡ぐような気がした。最後のひと縫いを終えた瞬間、ページの奥から細い匂いが立ちのぼった──焚き木と古い学校の椅子、閉め切った夏の窓。誠の胸に、遠い夕暮れが落ちる。

しかし、手放せない欲求が顔を出す。誠はその匂いを言語化したかった。椿の過去を確かめたかった。確信を持てれば、自分の行動も、成すべきことも決まると思っていた。彼はページに顔を寄せ、指先で痕跡をなぞりながら、小さな声で言った。

「これって──あの人の名が書いてあるんじゃないか」

言葉にした瞬間、痕跡が薄れる。匂いが揺らいで消え、紙の上の黒い点がにじんだ。誠の呼吸が止まる。確かめたいという欲求が、痕跡を奪う。彼は手を離し、肩に力が抜けた。

「ごめん、誠……」椿の声が内側で割れる。

誠は首を振った。「謝ることじゃない。僕が」自分を許すために来たはずなのに、いざというときに確信を求めてしまう自分に、彼は歯噛みした。「試してみただけだ。余計なことをした」

椿は顔を上げ、ゆっくりと言った。「決めつけられるとね、消えるの。私も前に、自分に決めつけたことがあった。そしたら、思い出してはいけないような気がして、本当に忘れてしまったんだ」

その告白は重かった。誠は椿の手をとり、指の間に残る糊の冷たさを感じた。「一緒に作ることだけが、痕跡を残す方法なんだ。急ぐと壊れる。決めつけると消える」

「わかってる。でも怖いよ。共同で作るってことは、あなたにも触れられるってことだから」椿の目が揺れ、光が滲む。「あなたは私をどう思う?」

誠は答えない。言葉で埋められるものは何もなかった。彼はただ、彼女の手のひらを握りしめて、ページの背を撫でた。手触りの粗さ、糸の引き締まった感触、製本用の針の冷たさが現実を引き戻す。言葉よりも確かなものが、そこにあった。

その夜、工房ではもう一つ別の音がした。扉の向こうで、由里と小野が声を潜めて話し合っている。誠が顔を向けると、由里が廊下の隅から資料を差し出した。彼女の額には疲労の線が走るが、その目は決意に光っていた。

「今週、広場で読み聞かせをやるわ。自主企画よ。広報は私が出すから、誠は本だけ持ってきて」由里が言う。彼女の口ぶりに、自主的な主体性が宿っていた。誰かに頼まれたわけではない。仲間たちがそれぞれ、店を支え直すために動いている。

小野が付け足す。「それと、昨日のお客さんたちが少し戻ってきた。彼ら、手にとってくれたんだ。印刷したときの紙の匂いで泣いちゃった人もいたよ」

小さな支持が戻る。だが光の隅には影が伸びていた。誠が受け取った一通の封筒が、机に置かれている。封を切ると、中には市の文化振興室からの通知が入っていた。要点は簡潔だった。助成金の条件として「参加団体は公的編集審査を受けること」「営利目的が強いと判断された場合は支援除外の可能性がある」という文言。つまり、自治体の援助は、編集の管理と引き換えに得られる可能性があるということだ。

由里は紙を読み、顔を硬くする。「要するに、私たちの作るものを外の基準で評価させろってことね。恋愛も作品も、点数と件数で消費される。私たちがやろうとしているのは違うのに」

「でも、資金がなければ店は持たないし、機材も保てない」小野の声には焦りが混じる。

椿がそっと封筒を掴んだ。彼女は誠の方を見ると、不確かな微笑を浮かべた。「どうする?」

誠は本棚に視線を巡らせた。棚には今までにならべた本たちの背がある。どれも誰かの手で、夜遅くまで縫われ、磨かれてきたものだ。共同で作られた痕跡は、外の評価の尺度に換算できない。だが、町の支持が失われれば、続けることさえできない。

「僕たち、まずは広場に出そう」誠はゆっくりと答えた。「資金の話は後で詰めよう。外に出して、直に戻ってくる支持を確かめる。誰かに訂正されたり、点数をつけられたりする前に」

椿は息をつき、肩の力を抜いた。「やってみよう。私の欠片も、そのまま持っていく。綴じたまま、壊さないで」

由里が顔を明るくすると、小野が急に笑った。「じゃあ、場当たり的じゃなくて、夜の朗読会をやろう。誠、あなたはその場で製本を実演して。痕跡がどう残るのか、見せてほしいって言ってる人がいるんだ」

誠は小さく頷いた。恐れは消えない。けれど、動くことでしか変えられない現実もある。彼は椿の手を取り、本の背に親指を滑らせた。そこに残る糸の感触が、彼の胸の中の小さな針を少しだけ緩める。

その瞬間、工房の電話が鳴った。受話器の向こうの声は官僚的で、そして冷たい輪を作っていた。「市の文化振興室ですが、明日の市会で、出展者全員の登録を審査にかける案が提出されます。御社の参加も、その審査に従っていただくことになりますので、ご了承ください」

言葉は穏やかだが、含意は明白だった。支援の入口が遠くなるだけでなく、参加するためには「第三者の審査」を受け入れなくてはならない。誠は受話器を置き、椿を見た。彼女は震えずに、ただ静かに座っていた。

「私たちのやり方が、その審査で否定されるかもしれない」椿は淡々と告げる。「でも、やってみる価値はある。私、本の中に置いたものが、誰かの胸に届くなら、記憶は消えなくて済むと思うから」

誠の胸に、新しい決意が生まれた。彼は集まった仲間たちを見渡し、一つ一つの顔に確かめるように目