通学船で進路が違うふたりは告白しないまま守る 第9話「第8章」
船の甲板は朝の光で薄く輝いていた。鉄の床が揺れるたび、薄い水音とエンジンの低いうなりが同じリズムで戻ってくる。航也は一番端のベンチに座り、缶コーヒーの暖かさを両手で包んでいた。風が時折、海の匂いに交じって紙の匂いを運ぶ。向かい側では真琴が大きなボードを抱え、里奈がクリアファイルを何冊もつかんでいる。亮はスマートフォンを片手に、事務局と何やらやり取りしていた。
船の甲板は朝の光で薄く輝いていた。鉄の床が揺れるたび、薄い水音とエンジンの低いうなりが同じリズムで戻ってくる。航也は一番端のベンチに座り、缶コーヒーの暖かさを両手で包んでいた。風が時折、海の匂いに交じって紙の匂いを運ぶ。向かい側では真琴が大きなボードを抱え、里奈がクリアファイルを何冊もつかんでいる。亮はスマートフォンを片手に、事務局と何やらやり取りしていた。
「朝の便で手配してくれたから、スケジュールはもう動けるよ」真琴が息を切らして言う。彼女の声には勝ち誇ったような自信がある。航也はただ頷いた。口に出して反対する理由は、今のところなかった。彼らは彩花のために動いている。だがその”ため”は、航也が大切にしていることと微妙にずれていた。
里奈が机代わりに座った折りたたみテーブルの上に、厚めのファイルを置く。角はテープで補強され、表紙には手書きの見出しが貼られている。近くで見ると、ページの縁はせっせとラミネートされた艶で覆われ、インクのにじみは熱で固められていた。里奈が嬉しそうに指で弾いたあと、テープの端がほんの少しめくれる。
「これでよし。書類は濡れないし、面談のときに渡しても綺麗に見えるでしょ」里奈は誇らしげだ。亮はさらに付け加えた。「しかも、事務室に掛け合って、昼の回に彩花を入れてもらった。混雑してる時間帯だから、評価する側もまともに見てくれるはずだってさ」
航也の胸の中がすうっと冷えた。昼の回に入れたこと、書類を完璧に仕上げたこと、その全部が「効率」と「見栄え」のために最優先されている。彼がこだわってきたのは、彩花と一緒に作る時間。そこにこそ、彼の能力が働く余地があった。共同制作だけが残す”痕跡”――それを見つけることで、彼は彼女の心の輪郭を掴むはずだった。
「……彩花、来ないの?」航也はようやく口を開いた。声は小さく、波音に消されそうだった。
真琴がすぐに答える。「朝のオリエンテーションでしょ。予備校の説明もあって、今日は無理って言ってた。だから私たちで段取りだけでもって動いたんだよ。航也、そこまで気にしなくていいって」
里奈がファイルを差し出す。「これ、最終版。表紙の紙は彩花が好きそうな色に調整したし、手書きの応援メッセージも入れた。彩花の写真も、こないだ学校で撮った正面のやつから選んだよ」
航也はファイルを受け取った。表紙を親指でなぞると、ラミネートの冷たさが伝わる。指先に残るのは人工的な硬さで、以前彼が感じられたような、紙が持つ温度と柔らかさではない。彼の中で、何かが小さく軋んだ。
「これ、触っても……」航也は言葉を濁す。能力の感覚を確かめようと、いつも通り掌を紙にかざしてみる。だが、反応は薄い。ごく薄い温度差があるだけで、具体的な痕跡は現れない。彼がこれまで感じ取れていた、文字一つ一つへのぬくもり、ページの折り目に残る指先の癖、紙の繊維に宿る小さな震え――それらが、封じられている。
「ラミネートしちゃったからね。何かあって水濡れでもしたら嫌だし」里奈は気にする様子もなく言った。「私たちが守るんだから、余計なリスクは減らしたいの」
航也は掌に力を込めた。痕跡を決めつける、という言葉が頭をよぎった。彼の能力は曖昧さに弱い。あらかじめ“これはこうだ”と決めつけると、感覚がぼやける。だがここでぼやけるのは勝手な解釈のせいだけではない。誰かが、「保護」という名目で作業を急いでしまえば、共同制作自体が壊れていくのだ。ラミネートの熱、テープの重ね、角の補強――どれもが、安全という着地点を目指した選択だった。だがその過程で、触れられるはずだった細い痕跡が焼き尽くされてしまった。
「僕たちが守るって、……」航也は言葉を探した。「守るって、どういうことだ?」
真琴が顔をしかめる。「そんな哲学みたいなこと言い出すなよ。今は実務を回すのが先でしょ。彩花が焦って変なことしないように、私たちで押さえておくべきなんだよ。航也、あなたが一人で抱え込むのは違う」
亮がスマホの画面を見せた。「事務局、了解だって。昼の面談は正式に受け付けた。これで安心していい。あとは彩花に渡すだけ」
彼らは自律的に動いていた。航也の合図を待たずに、良かれと思った選択を積み重ねていく。守る意志は同じでも、その手段は分岐する。航也は孤立を感じながらも、顔には出さないように努めた。声を荒げれば、友達の善意を無下にすることになる。だが口を閉ざした瞬間、できあがったものから、彼だけが欲していた”答え”は消えた。
航也はじっとファイルの端を見つめる。ラミネートの表面に自分の顔が歪んで映る。彼は薄く息を吐くと、決めていたことを試してみた。痕跡を”見る”方法は、共同制作物に手を添えるだけではない。自分の中で、その物に込められた可能性を一瞬だけ信じ切る――その瞬間、能力は弱い光を放つ。しかし今日は違った。彼が無理に解釈を押し付けるように、色を確定させようとした瞬間、空気の色が落ちた。額のあたりに冷たい汗がにじみ、視界の隅が白く霞む。掌に伝わっていた冷たさが、ふっと消えた。
「だ、大丈夫か?」亮がすぐに声を上げる。航也は首を振って、平静を装って笑ったが、その笑顔は薄かった。数秒間、彼は紙に何も感じられず、海風の匂いも遠ざかった。記憶の端が現実よりも薄くなるような喪失感。能力の代償は、見えなくなることだけではない。決めつければ決めつけるほど、世界の細部が一時的に剥がれていく。
「無理するなって言ったでしょ」真琴の声には苛立ちと心配が混じっていた。「航也、あなたが無理しても意味ないよ。彩花のためにやってるのは分かるけど、みんなでやればいいの。あなた一人に任せるんじゃなくて」
そのとき、後方から小さな足音が近づいた。彩花が甲板の舷窓から顔を覗かせる。白いブラウスは朝日に透け、髪はまだ寝癖が少し残っている。彼女の目は少し眠たげで、けれどもどこか決意を秘めた光を宿していた。友達たちの自律した動きに気づいているのか、いないのか。彩花は船内をゆっくりと歩み寄ってきた。
「ごめん、遅れた」彩花は息を切らしながらも微笑む。しかしその笑顔には針が一本刺さっているようなものもあった。彼女は自分のバッグを下ろすと、何気なく里奈のほうに視線を向けた。里奈はファイルを彩花に差し出す。彩花の指先がそれに触れた瞬間、航也の胸に小さな衝撃が走った。ラミネートの硬さの向こう側で、確かに、何かが消えかかっている。
「みんな、ありがとう」彩花は表情を変えずに言った。「でも……私、最初から自分でも小さなものを作ってた。面談で話すための一枚のカード。今日、これを渡すつもりだった」
彼女はバッグの奥から、小さなカードを取り出した。厚手の青いカードだった。角は擦れていて、インクの点が一つだけ乾いた形で残っている。ラミネートされていない、柔らかいカード。彩花はそれを航也のほうへ差し出した。
「これ、私が朝書いたんだけど……みんなに見せるのは恥ずかしくて。航也にだけは、渡そうと思ってた」
航也は手が震えた。指でカードの縁に触れると、ラミネートとも違う、温度が戻ってきた。紙の繊維に微かなざらつきがあり、左上には彩花が深呼吸して押し付けたような小さなしわ