通学船で進路が違うふたりは告白しないまま守る 第3話「第2章」
朝の潮風が舳先に立つ三人の背中を撫でる。航也は手の甲に付いた糊を爪先でこそげ落とし、机代わりにしていた折り畳みテーブルの端に肘を乗せた。通学船の甲板にはそれぞれの行き先を書いた荷物が並び、母港のにおい——冷たい海水と古い木材、そして誰かが昨日撒いたペンキの匂い——が混ざっていた。
朝の潮風が舳先に立つ三人の背中を撫でる。航也は手の甲に付いた糊を爪先でこそげ落とし、机代わりにしていた折り畳みテーブルの端に肘を乗せた。通学船の甲板にはそれぞれの行き先を書いた荷物が並び、母港のにおい——冷たい海水と古い木材、そして誰かが昨日撒いたペンキの匂い——が混ざっていた。
望(のぞみ)が大きく息を吸って、色紙の一枚を掲げる。颯(はやて)は筆で勢いよくラインを引き、紙の表面がずるりと滑る音が甲板に薄いリズムを刻んだ。玲奈(れいな)はスマホを片手に「時間がないよ、七時の点呼までに掲示板に貼らなきゃ」と舌を打つ。三脚に貼る告知ポスターは、今朝の文化委員会の手伝いだと言いながら、誰もがどこか浮ついていた。
航也は静かに、しかし確かな声で言った。「共同で作る。二人以上。作業の途中で『これはこうだ』って決めつけないでほしい。」言い方は簡潔だが、彼の目は四人の作業を順に追った。望が眉を寄せる。颯は筆を止めてこちらを向き、玲奈はそれを面倒そうに聞き流すような顔をした。
「また変なこと言ってる」と玲奈が笑った。「航也の能力、もう全部暴露しちゃえばいいのに。面白いのに。」その声は他愛なさを装っていたが、航也の胸に小さな硬い痛みを落とす。
「暴露はしない」と航也は言った。「ただ——やってみる。」
彼らは四人のうち二人だけでいい、というルールを守る。航也は自分が見えるものを説明する言葉を持っていない。だが今は示すことが必要だった。望と航也が同時に一枚の紙の角を押さえ、絵の具を混ぜる。抑えた指先の圧力の差が、紙の繊維に細かい波紋を残す。航也はその瞬間、紙の端にうっすら紡がれる「気配」を感じ取った。
それは光でも匂いでもなく、触覚に近い記号だった。紙の端から、微かなざらつきが指先に伝わる。色味がほんの少し深くなるわけではない。むしろ、紙の余白に小さな欠片が積み重なっていくような感触——誰かのための置き忘れられた痕跡。航也はその欠片を探るように視線を落とすと、そこに彩花(あやか)の不安がいるのを見た。刃先みたいに細い、不意に消えるかもしれない小さな欠片。
「……彩花の?」望が呟く。声が低く、耳を澄まさないと聞き取れないくらいだった。
航也は言葉を選んだ。「そうかもしれない。でも確定はしない。確定すると見えなくなる。」
「どういうこと?」颯が眉を寄せる。筆が机に落ち、紙の端で軽い拍子木のような音がした。周りの雑踏が少し大きくなる。
「説明するときは、作ってるものを壊す覚悟がいるんだ。」航也は目の前の紙の端を指でなぞる。指先に伝わったのは、ふっと引かれるような感触だった。まるで海が引くときに砂の一粒が手のひらに残るような。
玲奈は溜息をついた。「そんなオカルトめいたことより、早く作業してよ。役員が来るまでに全部貼り終えたいんだって。」
彼女はスプレーの缶を持ち上げ、光沢を出すためにポスターに均一に吹きかけた。化学薬品の刺激的な匂いが船室の空気を裂く。紙が濡れ、色が締まる。航也は瞬間的にそれを「消える音」として感じた。光が粒となって飛び散る、そんな視覚的な錯覚が胸を横切る。
「やめて!」航也は手を伸ばした。握りしめた手のひらがざらついて、吐きそうなほどの圧迫感が喉を締めつける。だが玲奈の手は早く、そして熟練していた。スプレーの先端から吹き出した霧がポスターの表面を覆い、艶が出ると同時に、紙の余白にあった繊細な「欠片」が一瞬、光の埃のようにぱらぱらと崩れ落ちていく。
望が顔をしかめた。「消えた……」
消えた、というより、粒子化して風に乗って飛んでいくようだった。海風がその粒を弄び、まるで何か大事なものを嘲笑しているかのように、粒は甲板の裂け目に飲まれていく。航也の胸の中で、薄い痛みが一つ弾けた。耳の奥で、遠く船底のモーターが一瞬だけ高く悲鳴を上げる。
「それで代償は?」颯が声を絞り出す。航也は唇を震わせながら首を振る。
「急ぐと、共同制作そのものが壊れる。壊れると——見えるものも、見えなくなる。代わりに体が反応する。」
言い切るのが怖かった。だが時間は容赦なく流れる。玲奈はもう一枚を取り出し、手早く向きを変えた。彼女の手の動きは無駄がなく、航也の注意を引きつける。共同で何かを作る瞬間は、たいてい二人の時間と手間と、それに伴う苛立ちが混ざり合う。その混ざり具合を彼はラインに沿って読むしか方法がなかった。
「じゃあどうすればいいんだよ」と望が訊く。彼女の声には焦りが混じっている。筆の刷り跡から、まだ乾いていない絵の具の匂いが鼻腔に残った。
航也は目を閉じ、船の鼓動と自分の鼓動を合わせる。鼓動は穏やかに、だが確実に早まっている。彼はあの欠片が崩れゆく様を再生しようとした。紙の縁で光が粒化し、掌の中で砕けていく。気付くと、喉の奥に金属の味が滲んでいた。これが代償の一つだと確信する——感覚が一つかけて、体が冷たくなる。
「決めつけないで」と航也は静かに言う。「そして、急がないで。どうしても急ぐなら、僕は見ない。」
それは自分自身を隔離する宣言でもあった。望が深呼吸をすると、彼女の顔から少し柔らかさが戻る。颯は一歩前に出て、玲奈の手を軽く叩いた。「ねえ、少し待てよ。枚数は減らしてもいいんじゃないか?」
玲奈はうんざりとした顔で俯いたが、やがて渋々と同意した。スプレー缶はテーブル上でカチャリと音を立て、蓋が外されたままになる。潮風がそれを冷たくなでた。甲板の音が再び整い、四人の動作は慎重さを取り戻す。
航也は再び紙の端を見る。最初の欠片は戻らない。だが別の場所に、今度は小さな白い筋が現れていた。それは彩花が東京行きの進路を決めた、と直接は言わない。むしろそれは「迷い」よりも「決意の欠片」に近かった。迷いと決意が紙の中で薄く重なり合い、航也の指先にはそれが温度差として感じられた。熱、と呼ぶには弱すぎるが、冷たさよりは確かに温かかった。
「これ、優しいね」と望が囁く。「悲しみとは違う。」
航也は頷いた。だが同時に、胸の奥にもう一つの恐れが生まれていた。共同制作の時間は短い。彩花の進路は明日をもって動き出す。それは、彼らが共同で残せる痕跡の時間を縮めるということでもある。早まれば消える。急がずに待てば、機会を逃すかもしれない。
「――来週から、別の船に乗るって聞いたよ」と颯が、不意に言った。彼はペンを脇に置き、遠く舳先の方を見た。海の向こうに、もう一隻の通学船が小さく進んでいくのが見える。白い尾を引くように、静かに。
その一言は、甲板の空気を変えた。四人の間にある静寂が、瞬間的に鋭くなる。玲奈は口をきゅっと結び、目を細めた。望は紙をそっと胸に押し当て、航也を見る。航也の心臓は喉に跳ね上がるように鳴った。別の船——彼女が行く通学船が変われば、彼らの共同作業の機会は減る。増えるのは、噂と評価を消費する周囲の視線だ。
「どうする?」颯が低く訊ねる。声は波の音に溶けそうで、しかし誰もがその問いの重みを感じていた。
航也は握った糊の缶を指で回転させながら、窓の向こうに見える港の輪郭を追った。潮の匂い、塗料の匂い、金属の冷たさ。全部が混ざり合ったこの場所で、彼は一つの決意を固め始めていた。