通学船で進路が違うふたりは告白しないまま守る 第27話「第二部幕間」
艤装庫の扉を押し開けると、潮の匂いと油の匂いが混ざった重い空気が流れ込んできた。午後の光が斜めに差し込み、埃の粒がゆっくり舞っている。航也は両手に古い航海日誌と、色あせた折り紙帆を抱えて、いつもの場所へと足を進めた。床板がきしむたびに、通学船の低い振動が伝わってくる。彼の指先は紙の縁でざらつきを感じ、日誌の表紙に残る指紋の凹みを確かめるようになぞった。
艤装庫の扉を押し開けると、潮の匂いと油の匂いが混ざった重い空気が流れ込んできた。午後の光が斜めに差し込み、埃の粒がゆっくり舞っている。航也は両手に古い航海日誌と、色あせた折り紙帆を抱えて、いつもの場所へと足を進めた。床板がきしむたびに、通学船の低い振動が伝わってくる。彼の指先は紙の縁でざらつきを感じ、日誌の表紙に残る指紋の凹みを確かめるようになぞった。
「来たか」声は短く、けれど安心を含んでいた。望がベンチに腰かけ、颯は古いスプレー缶を手にしていた。二人とも作業着に似たジャケットの袖口が黒く汚れている。航也は無言で折り紙帆を差し出した。これは彩花と二年前に一緒に折ったものだ。彼女の指の癖が残るから、航也の能力はここに痕跡を読むことができる—ただし「二人で共同制作した物」に限られるという条件がある。
「今日は何をするんだ?」颯が訊ねる。声がこもる。機関室の低い唸りが背景になっている。
「試す」航也は短く答えた。日誌のページを開くと、二人で書き込んだ走り書きが端に寄っている。彼は折り紙帆を懐に抱え、二、三秒だけ息を止めた。能力は決して派手に働かない。対象の縫い目や糊の端、紙の折れ目に沿って、かすかな温度やにおいのようなものが立ち上がるだけだ。今回は彩花の「痕跡」を読みたい。だが彼女はそばにいない。だから彼はぎりぎりの賭けをする――共同制作の「記憶」を切り貼りしてでも、彼女の現在を拾い上げられないかと。
航也が掌を帆の中心に置くと、折り目に沿って細い、淡い光の川が見えた。色でいえば薄い藍色の痕だった。藍は迷い、あるいは海の遠さを思わせる色だった。彼はその感覚を逃がすまいと、静かに呟く。
「迷ってる。決めきれない――」
その瞬間、光は固まることなく、くずれるように薄くなった。帆の端で紙が乾いた音を立て、わずかな裂け目が走る。航也の胸に冷たい風が突き刺さると同時に、掌のひらがひりつき、指先がしびれた。味覚が一瞬、金属のように変わり、口に塩の苦味が広がる。能力を使う代償はいつもこの種の欠片を残す。だが今回は違った。決めつけた途端、見えていた痕跡が消え、代わりに物理的な損壊が起きた。
「あっ」望が思わず声を漏らす。折り紙の裂け目が手元に広がり、紙の端から微細な繊維がほつれ出した。颯が手を伸ばして咄嗟に押さえるが、裂け目は止まらない。彼らが急いで布テープを探す間にも、帆はどこか軽やかに、だが確実に壊れていった。
「無理に決めつけたからだ」航也は自分に向けられた非難を聞くような声で言った。だが声は震えていて、自分の耳にも冷たく響いた。能力の禁止はいつも正確だ。痕跡をこちらの都合で意味づけようとすると、その痕跡は音を立てて消える。物と心の間の紐を無理に引けば、紐がほどけて物は壊れる。
「何をしようってんだよ、航也。俺たちが彩花の代わりになれるわけじゃないだろ」颯が荒い息を吐く。彼の手はペンキの染みで指先が白くなっていた。望は黙って帆を受け取り、裂けた部分を慎重に重ねた。繊維の摩擦音が小さな鐘のように響く。
「でも放っておけない」航也は言う。言葉は軽いが中身は重い。自分が守ると決めた。その壁の前で、彼はいつも手を伸ばす。だが伸ばした手で物を傷つけるのは彼の望みではない。
「守るってのは、相手の選択を奪うことじゃない」望が冷ややかに言った。「それを忘れると、何でも許されるみたいに思い込む。だから物も心も壊れる」
三人の間に短い沈黙が落ちた。舷窓の外、港の波が鉄板に当たる音がリズミカルに聞こえる。航也は痛みを飲み込み、掌を見た。指先の皺が少し白くなっている。代償は確かに身体に刻まれていた。
「わかった」航也はゆっくりと言った。「もう無理に解釈しない。だけど、どうすれば彩花の“今”に手を添えられるか。直接じゃなくても、共同で作ることで彼女の痕跡を残せるはずだ。彼女自身が加わる形で、だ」
「それが条件だ」望が頷く。「二人で作ること。無理な誘導や演出はダメ。本人の参加があること。それに、急いで完成させるようなやり方だと壊れる。忘れないで」
颯がスプレー缶の蓋を指ではじき、音を鳴らす。彼はしばらく黙ったあと、急に笑いを混ぜた声で言った。「古いベンチが甲板にあるだろ?あれ、彩花いつも座ってるじゃん。あれを直すのはどうだ。修理って口実なら自然に手を貸せるし、作業自体に時間がかかるから急ぎにはならない」
航也の胸に微かな、しかし確かな光が差した。ベンチは古く、塗装が剥げ、二人で座っていた時間を吸い込んだような木目をしている。共同制作の対象としては理想的だ。しかも人目につく場所にある。社会の目がうるさい今だからこそ、公開の場で、しかも参加が任意である作業は制度の圧力を受けにくいかもしれない。公共性が、噂を一方的に消費する仕組みを分散させる可能性を持っている。
「しかもだ」望が続ける。「単純に直すんじゃなくて、みんなで少しずつ手を加える『修繕週間』にすればいい。募集をかけて、強制じゃないってことをはっきりさせる。彩花も、来たければ来る。来なければ来ない。彼女の参加があれば、航也、そのベンチには彼女の痕跡が残る。無理に読む必要はない。見守ることができる」
「彩花を誘う役は誰がやる?」颯が問いかける。問いは投げっぱなしにできない種のものだった。誰かが声をかけることで、状況は動き始める。誰かが声をかけなければ、何も始まらない。
航也はその問いをしっかりと受け止めた。誘うという行為そのものが介入になることは理解している。だからこそ、強引でない人がやるべきだ。望は冷静な説得力を持ち、颯はざっくばらんな口調で彩花の警戒心を和らげられる。だが航也は自分が誘えば、彩花に「守られている」という彼の意思を暗に強制してしまう恐れがある。
「俺は……」航也は言葉を探した。掌のしびれはまだ消えないが、考えは澄んでいた。「望、颯、二人とも彩花のことをよくわかってる。俺が誘うと彼女に重荷になるかもしれない。だから、君たちどちらかに任せたい。自然な形で声かけしてくれないか」
望と颯が互いに顔を見合わせる。外の波音が一拍置いて部屋に入る。しばらくして望が小さく笑った。
「じゃあ、私が最初に声をかけるよ。堅苦しくないように、明日の放課後、飲み物でも持って『ちょっと手伝ってくれない?』って誘う。彩花が来たら、彼女のペースを尊重する。来なければ構わない。それでも修繕自体は続ける。みんなが自主的に参加できるように募集をかけるね」
颯が指を差して言う。「俺はペンキと工具の手配をする。急な仕事にはしない。時間をかけて、みんなの手が入るようにする。航也はその間、壊れた折り紙帆を直しておけ。無理に読むんじゃなくて、直すことを通じて見守ればいい」
航也はその提案を飲み込んだ。胸の奥の緊張が少しだけ緩む感覚があった。誰かが自分の意思を代行するのではなく、自分たち全員が主体的に選ぶ形で動き始めたことが、なにより大きかった。
「いいか」望が手を差し出す。「これは守るための作戦じゃない。参加を作る試みだ。彩花が選べるようにする、それだけ。守るってのは、そっちのことだよ」
航也はその手をぎゅっと握った。掌の感触に含まれる温度が、今の自分に確