通学船で進路が違うふたりは告白しないまま守る 第23話「第21章」
潮の匂いが混じった風が甲板を撫でる。通学船「白櫂」の木製の手すりは、昨夜の雨でしっとりと冷たく、船底を伝うエンジンの低い振動が足裏まで伝わってくる。航也はその手すりに片手を置き、もう一方の手で航路箱の蓋をぎゅっと抱えていた。航路箱──Workshop「航海工房」のために、生徒たちが半年かけて削り、塗り、刻んだ木箱だ。周囲には、抗議のプラカードを手にした生徒、スマートフォンの画面を光らせる教師、そして学生自治会の長、松岡が山吹色のバッジを光らせて立っている。
潮の匂いが混じった風が甲板を撫でる。通学船「白櫂」の木製の手すりは、昨夜の雨でしっとりと冷たく、船底を伝うエンジンの低い振動が足裏まで伝わってくる。航也はその手すりに片手を置き、もう一方の手で航路箱の蓋をぎゅっと抱えていた。航路箱──Workshop「航海工房」のために、生徒たちが半年かけて削り、塗り、刻んだ木箱だ。周囲には、抗議のプラカードを手にした生徒、スマートフォンの画面を光らせる教師、そして学生自治会の長、松岡が山吹色のバッジを光らせて立っている。
「これ以上時間を無駄にするな。安全基準に合致しないというのが根拠だ。ここで実施して問題が起きれば、責任は運営に帰する」
松岡の声は甲高く、周囲の空気をピンと張らせた。だが航也の耳には、エンジンの音、その奥で鳴る時計の秒針のような低いリズムしか入ってこない。箱の木目を指先でなぞると、手のひらにごくわずかな温もり——先日、紬と一緒に最後の塗装をしたときのやすりの跡が残っている。共同で作ったものだけに残る“痕跡”が、航也の力に応えるのだ。
「生徒自治は多数決で決めるって、散々言ってきたじゃないか。クラスの半数以上が継続を望んでいる。運営の怠慢を理由に、簡単に潰すのはおかしい」
由梨が箱の向こうで声を張る。彼女の頬は赤く、指先は指揮棒を握るように震えていた。隼人は航也の肩を叩いた。隼人の目があまりに真剣だったから、航也は言葉を返せずに頷くだけだった。
松岡は手に持った書類をめくり、ひとつのページを指差した。「保護者からの安全面への懸念が寄せられた以上、我々は一時停止を提案する。事実確認が取れるまでという条件付きだ」
「事実確認って、何をどう確認するんだよ」由梨が言った。「結局その“懸念”って匿名のメール一通でしょ。ちゃんとした根拠を示せって言ってるの」
だが松岡は顔を変えない。周囲の学生の視線が交錯し、甲板上の空気がぎくりと硬くなる。航也の胸の奥で、守るべき対象が震えるのが分かった。紬──彼女は航海工房の設計図をいちいち丁寧に直し、箱の内側に小さな紙切れを折っては「ここに入れとくね」と笑った。彼女の笑顔を奪われるわけにはいかない。告白をしないまま――それが彼の決めた形だった。
「ここで俺が一つだけ、過去の痕跡を示す」航也は声を出した。自分でも少し驚くほど冷静だ。手の中の箱が重い。能力の条件はいつもと同じだ。共同で作られたものだけが、そこに残した断片を呼び出すことを許す。万能ではない。決めつければ見えなくなる。急げば、共同制作の結び目がほつれて痕跡が壊れる。だが今は、最小限の一つが必要だった。
「やめろ、航也。そんなことを——」由梨が止めに入る。彼女は知っている。航也が能力を使うと、その代償が彼に帰ってくることを。記憶が抜けること、視界がぼやける時間が来ることを。だが紬の顔を見ると、由梨の口は動きを止めた。紬が、航也を見ている。真剣さと不安が混じった視線だ。
「一つだけ」航也は繰り返し、箱に掌を載せた。匂いが立つ。ニスと海風と、ほんのりとした塗料の甘い匂い。箱の表面が微かに温かいのは、昨日までの学生たちの手のぬくもりだ。手のひらから、痕跡が呼ばれてくる感触――波紋のように、目に見えない記憶が震えた。
視界の色が、するすると抜けていく。最初に赤が消え、次に黄色が鍵を抜かれたように消え、世界は薄い灰色に沈む。音も色を失った。松岡の声は遠く、海の音だけが寄せては返す。航也は息を吸った。痛みはない。ただ、世界がモノクロのフィルムになっていく。
箱の上方に、白黒の映像がふっと浮かんだ。航也の胸の中にあった“問い”の一点を示す断片だ。そこに映っていたのは、二か月前の学生自治会の会議室。蛍光灯の下、スーツの影をした外部委員らしき男が書類を突き出し、松岡の肩に手を置くようにして「ここはダメにしたほうがいい」と囁く様子だった。言葉は残らなかったが、指先の動き、囁きのリズムだけで意味は伝わる。外部委員の手には、見覚えのある封筒の輪郭。中には匿名の投書を入れてきたという形跡があった。
航也は映像の中の、松岡の眉間の皺を見た。迷いと恐れが混じり、決断を先延ばしにするための方便が走っている。誰かが背中を押して、彼は安全策として「一時停止」を選んだ。だがそれは事実の確認ではなく、責任回避のための手段だったと、断片は告げている。
「これでわかるだろう」航也は言った。言葉は灰色に溶けかけていたが、皆の耳には届いた。由梨が息を呑み、隼人が拳を握る。松岡の顔が微かに青ざめるのが見えた。外部委員の姿は映像の中でにじみ、やがて薄れていった。それは一瞬の真実の証明だった。
だが映像が消えた瞬間、航也の視界はさらに狭まった。色は戻らない。世界は冷たい鉛のように重く、遠い。掌に残る箱の感触が遠のき、指先の感覚がぼやける。
「これで終わりか?」松岡の声が、かなり低くなって聞こえた。「それを証拠にするなら、正式な調査を——」
「正式な調査でいい。だが今ここで、保留は解除してほしい。明日の授業は普通に戻してくれ」由梨が前に出た。声は震えているが揺るがない。生徒たちから拍手が起きる。幾つかの携帯の画面が明るく光り、SNSのライブ配信が始まっているのを航也は感じた。記録を取る人間が増えれば、口先だけで潰すことは難しくなる。共同体の選択——それが彼らの武器だ。
結論はぎりぎりのところで出された。学生自治会は、明日までは研修の継続を認めるという暫定判断を下した。松岡は渋い顔をしたが、人数と流れに押された。外部委員からの圧力は示されたが、形式的な調査は約束された。歓声が上がる。紬が航也に駆け寄って来る。彼女の顔は、ほっとしたように緩んでいた。
「航也、ありがとう……」紬は声を抑え、でも笑おうとしていた。航也はその顔を見るために唇を開けたはずだったが、言葉は出なかった。世界の輪郭がまだぼやけて、声の出し方が分からない。紬の手が彼の腕を掴む。暖かさが指の間に残る。
その夜、船室で航也はうつらうつらとしたまま、黒い天井を見ていた。視界の片隅に残る色が急に少なくなっているのを感じる。記憶がぽろりぽろりと抜けるような違和感。昨日の夕飯に何を食べたか、隼人との待ち合わせに何を話したか、些細な断片が穴になっていった。そして一つ、胸の奥に刺さる問いがぽっかりと空白になっているのに気づいた。
「俺は紬に、なんて言ったんだっけ?」
言葉だけが落ち、後は白い静寂。映像の代償は約束通り来ていた。視界はまだ色を取り戻さない。だがそれより奇妙だったのは、一緒に見たはずの情景の一部が、まるで誰かが別のページを抜き取ったかのように抜けてしまっていることだ。紬が笑った瞬間の声、紬が握ったときに言った小さな言葉——それらがざっくりと欠けている。由梨の顔は浮かぶ。隼人の声も。だが紬の「ありがとう」の内側にあった、航也が守りたいと思った本当の理由だけが、赤裸々には思い出せない。
航也は掴もうとした。だが掴んだのは空気だけで、指先に伝わるのは潮の冷たさだけだった。代償は能力の一部だけではない。供された真実は、彼の記憶の何かと引き替えに出てくる。使うたびに、彼の中の一枚が剥がれていく予感があった。
窓