通学船で進路が違うふたりは告白しないまま守る

通学船で進路が違うふたりは告白しないまま守る 第19話「第17章」

掲示板の紙は、海風に揺れて小刻みに擦れ合った。黒い毛筆体で書かれた文字は無機的に冷たく見え、そこだけが港の喧噪から切り離されているように感じられた。

掲示板の紙は、海風に揺れて小刻みに擦れ合った。黒い毛筆体で書かれた文字は無機的に冷たく見え、そこだけが港の喧噪から切り離されているように感じられた。

「通学船航路の学校行事以外での利用禁止――即日施行。」

航也は指先で紙の端を撫でながら、波の匂いと混じったインクの匂いを嗅いだ。通学船。彼らの日常の軸。掲示板の向こうでは、同級生たちがざわめいている。結菜は眼鏡の縁を押さえ、小さく吐息を漏らした。彼女の肩にかかる制服の襟は、いつもより少し乱れて見えた。

「また、上からだよ……」文乃が沈んだ声で言った。彼女は手にスマートフォンを握りしめ、画面を何度も見返している。学校は、ここ数週間の“噂”に対して安全対策という名目で動いているのだろう。けれどその言葉は、いつものように対象を守るのではなく、対象の選択を奪う方向に作用していた。

「校務主任の判断だって。監査と航路のログ提出、定期点検の増設。事前申請が通らない限り、部活でも集まりでもダメだってさ」陽斗が肩を落とす。彼の声は大きかったが、怒りでもなく、むしろ諦観を含んでいた。

航也は黙っていた。胸の奥が重い。封じる。彼の頭を、短い言葉が過る。能力を完全に封じる――その選択肢は、ここ数日何度も頭をよぎっていた。だが封じれば、確実に事態は静まるのか。静まるとしても、それで守られるのは、本当に彼らの自由だろうか。

「集まり、どうする?」結菜がようやく口を開いた。声は低い。波の音がふたりの間を行き来する。

「航路外で、やれそうな場所を探さない?」真央が提案する。彼女はいつも前向きだ。定期便に依存しない小さな集まり、誰にも見つからないような港の片隅、古い橋の下。自主性を捨てないために彼らは動き出す必要があった。

その夕方、彼らは廃倉庫に布を広げた。壁の一部に残るペンキは剥がれ、潮の湿気が鉄骨にじみ出している。大きな紙地図の上に、色とりどりの絵の具が並べられた。航也は手元の小さな羅針盤を腕に差したまま、筆を取る。羅針盤はいつも冷たく、塗料のにおいと現実のみを彼に伝える。あれを海に投げ捨てれば、自分の“感覚”も消えるのかもしれない。逃げるような考えが彼の頭を掠める。

「ここを、好きな色で塗っていいよ。思い出でも、ここで怒ったことでも、別に重い話じゃなくていい」文乃が小声で言う。彼女はそう言いながら、筆を持つ手が震えているのを隠せなかった。だがその震えは、同時に何かを決めた音でもあった。

彼らはゆっくりと色をのせていった。結菜は緑を選び、金網のある小さな突堤をなぞった。陽斗は厚い青で、通学船がいつも通る直線を引いた。真央は明るい黄を選び、笑い声の出た小さな浜を点描した。航也は、薄い朱を選んだ。特別に意味はない。彼はただ、刷毛が紙をすべる感覚が好きだった。

共同で作るということ。それは、偶然が〈残る〉ことを許すことだと航也は思う。誰かが先回りして意味を決めない。誰かが全部を急いで完成させようとしない。共同制作の時間がもたらすゆらぎが、痕跡を残し、それを彼は“読む”ことができた。だが同時に、決めつける行為は痕跡を曖昧にする。ラベルを貼れば貼るほど、見えなくなる。

すると、真央が筆を強く動かした瞬間、紙にのった朱がひゅっと跳ねた。航也はそれをいつものように追った。そこに、彼女の急ぎが混ざっているのを感じた。彼女は例の集会が校則で禁止されるかもしれないと聞き、焦っている。焦りは筆圧に現れ、色の輪郭を曖昧にした。航也は直感的にそれを居所のない感情だと感じ取り、頭の中で「不安だ」と確定してしまった。その瞬間、刷毛の先が震え、朱の輪郭がにじんで形を崩した。

「──航也、ちょっと。」結菜の声が近い。彼女の目が航也を見つめる。いつもよりずっと真剣だ。彼女の視線の先には、にじんだ朱があった。

「ごめん、俺、つい……」航也は言い訳をしてしまい、言葉の重さとともに、能力が反発するような冷たい痛みを胸に感じた。痕跡を決めつけた瞬間、見る力は薄れていく。それは能力の罰であり、禁止事項の実体だった。視覚だけでなく、紙から伝わる匂いが薄れて、暖かさまでが遠ざかっていく。真央は顔を赤らめ、筆を止めた。

「それがダメなんだよ、航也」真央が小さく笑いながらもきっぱりと言う。「誰かが“これはこうだ”って決めちゃうと、ちゃんと残らない。急いで意味をつけても、誰のものでもなくなるだけ」

彼女の言葉に、航也は舌を噛むような痛みを覚えた。彼が“読んで”しまうと、痕跡は反発する。急いで状況を収めようとするほど、共同制作そのものを壊してしまうのだ。先に手を差し伸べて守ることが、時として相手の自律を奪ってしまう可能性。彼はその代償を、これまでにも何度か味わっていた。それは目に見えない裂け目となって、彼らの間に走る。

倉庫の中はしばらく静かだった。誰も筆を動かさない時間が続く。外からは通り過ぎる船の低いエンジン音が漏れ、遠くでカモメが一声上げた。潮の香りが、彼らの頬を優しく叩く。

「封じるってどういうことを考えてる?」結菜が、低い声で訊ねる。彼女の手が地図の端をなぞり、指先に絵の具の粒がつく。航也はそれを見て、もっともらしい嘘がつけなかった。

「羅針盤を捨てるとか、感覚を切る方法を探すって意味さ」彼は答えた。羅針盤は彼の能力に結びついている象徴で、海風に冷たく光る小さな円盤。だが本当にそれを捨てれば、彼は確かに見えなくなるのかもしれない。

「でも、それで本当に良くなるの?」文乃が目を細める。彼女の手は、黄の点描を指でそっと伸ばした。彼女の仕草は、物を壊さない優しさだった。「航也が見てくれるから作れたものもあるじゃない。見えなくなったら、私たちが自分で何するか、わからないよ」

「封じることで?守ることで?選択肢を奪ってしまったら、それは守ったことになるのか」陽斗が胸の内を吐き出すように言った。彼の声には怒りだけでなく、恐れが混じっていた。誰かが一方的に“守る”と決めることは、守られる側から選択肢を奪うことに等しい。航也はそれを自分もやりかねないと思っていた。

その時、倉庫の入口に小さな影が差し込んだ。真新しい学校の封筒を持った女生徒が立っていて、息を切らしている。封筒には校章が押されていた。彼女は深く息をしてから告げた。

「先生から連絡があって、臨時の監査が入るって。来週、学校側の職員が岸に来て、航路外での活動も含めて報告を求めるんだって。航路のログだけじゃなくて、誰がどこで何をしたかの聞き取りもするみたい」

紙の上の色が、何か暗い濁りを帯びるように見えた。監査。監査が来れば、彼らの代替策も追跡される。隠れて集まろうとした場所が、監視の対象になれば、もう「静かにやる」ことも難しい。強制的な情報の提出は、集団の自律をさらに削ぐだろう。

航也は、掌で羅針盤を撫でた。冷たさが指先を静かに刺す。封じてしまえば、監査の目は多少は軽くなるかもしれない。だがそのかわりに、彼らが自分で作る痕跡へ与える影響も変わってしまう。彼は、仲間たちの筆先に残る小さなためらいを見逃したくなかった。それが、彼らの次の選択を作る重要な痕跡なのだと、心のどこかが囁いている。

「……俺、今すぐには決められない