古民家シェアハウスで秘密を共有する医学生は一緒に休むことを覚える
古民家シェアハウスで秘密を共有する医学生は一緒に休むことを覚える 第9話「第8章」
縁側に残った夜の湿り気が、畳の端にうっすらとした光を落としていた。葵は茶碗を片付ける手を止め、外で小さく揺れる風鈴の音を聞いた。遠くで誰かが笑う声がして、それがすぐに無言に変わる。家の中の空気が、不意に重くなる。
縁側に残った夜の湿り気が、畳の端にうっすらとした光を落としていた。葵は茶碗を片付ける手を止め、外で小さく揺れる風鈴の音を聞いた。遠くで誰かが笑う声がして、それがすぐに無言に変わる。家の中の空気が、不意に重くなる。
芽衣は台所の向こう、縁側の障子にもたれかかっていた。指先で古い木の柾目をたどるようにして、視線は庭に向けられている。彼女の頬には赤みが残り、唇は引き結ばれていた。葵は胸の奥が疼くのを押さえながら近づく。今日は二人で小さな箱を彫ろうと、木材を買ってきたはずだった。
「まだ……決めてないの?」
芽衣は小さく笑った。笑い声は砂利を踏む音みたいに、薄くはじけた。「何を、決めるの?」
「ここに残るか、出て行くかって話。今日はみんなで作ろうって約束したんじゃないの?」
葵の声は低かった。言葉が鋭くなるのを避けるためにゆっくりと。芽衣は肩をすくめ、目を細める。
「約束って言っても、決められるものでもないよ。呪文みたいに唱えれば答えが出るなら、誰も悩まない。」
「でも、二人で作ったものには、痕跡が残る。それを見れば、少しは分かるんじゃないかって……」
葵は言葉を押し込むようにして続けた。能力を使えば、ふたりが共同で作った物にだけ、相手の思いが微かな痕となって残ることを知っている。ただし、それは「見る」ことで確定させようとするほどかすんでいき、関係を急ごうと無理をすれば共同制作そのものが壊れる。言葉で言えば一行に過ぎないが、胸にかかる重みはいつもの何倍も重かった。
芽衣は指先を動かし、縁側の板に落ちた月明かりを撫でる。「ねえ、葵。私、やっぱり行こうかなって思ってた。個展の話も来てるし、向こうでやる方が近道かもしれないって。だけどここにいると、誰かの顔色を見てばかりで、自分が何を描きたいか分からなくなるの」
その時、背後の部屋の戸がばたんと閉まった。結が声を震わせて叫ぶのが聞こえた。「学部の中で、芽衣さんのことを話題にしてる。『不安定』だって。噂が広がってる。課のウェブ掲示板にも名前が上がってるよ!」
言葉が、刀のように葵の心を貫いた。噂とは無色透明の鋭さで、人を切り刻む。芽衣の肩が小さく震え、竹の耳飾りがかすかに触れ合う音がした。葵は、はっと手を伸ばし、今年買ったばかりの彫刻刀を掴む。木箱に彫る紋を、二人で決める約束だった。
「一緒にやろう。今から作ればいい。すぐに」葵の声は急いた。心が冷たくなり、焦りが指先を支配する。「ここで、君がどうしたいかを決めるんじゃなくて、証を作るんだ。二人で刻んで、それで分かるはずだよ」
芽衣は葵の手を見つめて、静かに首を振った。「葵……急ぐのは怖い。あんまり急ぐと、壊れるってあなた言ったでしょ?」
その言葉は鋭利だった。葵は自分が忘れかけていたルールを思い出す。共同制作は、二人のペースで育てるものだ。焦って形を押し付ければ、その内部にあった温度は裂ける。だが、噂が芽衣を追い詰める。胸の中の恐れが、もう一つの衝動を産んだ。真実を一刻も早く確かめたい。傷つけたくない。だからこそ、確かめたい。
葵は木箱をテーブルに置き、彫刻刀の刃先を握り直す。「じゃあ、確かめる方法を変えよう。刻み方は私がする。君は目を閉じて、指先だけで触れて。私が感じたものを、そのまま刻み込むんだ。君の中の声を私が代わりに閉じ込める」
芽衣の目に、微かな怒りと悲しみが交差した。「それは違う。葵、それは『代わり』じゃなくて『決めつけ』だよ。あなたが決めてしまったら、痕跡は見えなくなる。最初からそう言ってたじゃない」
だが葵は耳を貸さなかった。焦りが掻き立てる。刃を箱の側面に当て、浅い傷をつける。木の皮が小さく剥がれ、香りが鼻腔に流れた。芽衣は手を箱に沿わせ、息を吐く。包丁で切るように、葵の手が彫る。刻むたびに、何か透明な膜が彼女の胸に張られるような感覚がした。腕に力が入りすぎて指先が震え、刃が一瞬深く入る。
「やめて……!」芽衣が叫んだ。声は涙を含んで、縁側の空気を震わせた。「私の気持ちをあなたに預けたくない。自分で考えたいの!」
その瞬間、彫り込んだ模様が小さくひび割れた。木の繊維がはじける音が、聴覚の端を刺した。箱の角がぱっくりと割れて、白い断面が覗く。葵の手から彫刻刀が滑り落ち、床に刺さる。胸の中が、凍りつくように冷えた。
能力が仕事をしない。確かめようという意図で強引に刻んだことで、木に残るはずの痕跡は濁り、匂い立つかすかな色合いは消えた。目に見えないはずのものが、見ることを拒否しているようだった。葵は膝に力が抜け、縁側にへたり込む。手のひらに汗がにじんで、木屑がべったりと張り付いた。
結がすぐに駆け寄ってきて、葵の肩を抱いた。「大丈夫? 痛かった? 師匠の昔話じゃないけど、強く押すと中身が壊れるんだって。ねえ、芽衣を守らなきゃって思ったんだよね。でも、こうなっちゃった」
芽衣は鼻をすすり、笑った。「守られるって、誰かに守ってほしいってことじゃなかった。私が選べること、それを奪われないってこと。あなたの能力があるからって、私の声まで奪わないで」
葵は震える声で言い訳を探す。「でも、噂が……学部の掲示板にあなたの名前が載ってると聞いたら、黙ってられなかったんだ。私、医者になるって約束してる。人を守るって誓ったんだよ。君が傷つくのを見たら黙ってられなかった」
芽衣はじっと葵の顔を見た。「守るっていうのは、相手の選択を奪うことじゃない。私も、守られる側でいたい時がある。けど最後に決めるのは私。私は、自分で自分を守る方法を探したいんだ」
そのとき、外から重い足音が近づいた。翔太が玄関の方から、怒りと決意を混ぜた顔で入ってくる。手にはスマートフォンが握られていて、画面にはスクリーンショットが表示されている。掲示板の投稿を示している。文章は無機質で冷たく、芽衣の名前が列挙されていた。
「それ、全部ぶっ壊してやる」翔太は言った。言葉は荒削りで、でもその目は真っ直ぐだった。「こんな基準で人を裁くやつらに、黙ってられない。学部の事務室に行って、説明を要求する。噂を流したやつのアカウントを突き止める。芽衣、お前がどうしたいかはお前が決めろ。俺はそれを壊すのが仕事だ」
結はためらいなく頷き、台所から白い封筒を取り出す。「私は学生会の友達に連絡する。実名での中傷は規約違反になるかもしれない。届け出を出せば、運営も対応を検討せざるを得ない」
仲間たちが、それぞれの方法で動き出す。葵は自分の無力さと強引さの代償を、一段と重く感じた。箱は割れ、中に入れるはずだったあんぱんや小さな手紙は、今は無意味に散らばっている。共同制作の象徴が、破片になっている。
芽衣は破片を拾い上げ、指先でその割れ目を撫でる。割れ目の中に、ほんのわずかに色の違う層が見えた。古い漆か、あるいは誰かが以前にそこに何かを塗り込めた跡のようだった。ひび割れの断面に指を入れると、粉のような手触りが指先に残る。葉のような、乾いた匂いがする。
「これ……前の持ち主の名前が彫られてる」翔太が言った。声はさほど動揺していなかったが、不意に手が震えた。「『関口』って……そんな苗字の人、学部にいるよ。教授の名簿にあ