古民家シェアハウスで秘密を共有する医学生は一緒に休むことを覚える

古民家シェアハウスで秘密を共有する医学生は一緒に休むことを覚える 第24話「第22章」

雨は、古い瓦屋根に一定のリズムで落ち続けていた。軒先から雫が連なって落ち、土間の敷居に跳ね返るたびに細かな水紋が広がる。葵は背負っている白衣を畳み、手際よくでもぎこちなくバッグに押し込んだ。指先が冷たい。窓の外、門の外灯がにじんで見える。雨粒に溶けた光が、門柱の木目を薄く撫でていた。

雨は、古い瓦屋根に一定のリズムで落ち続けていた。軒先から雫が連なって落ち、土間の敷居に跳ね返るたびに細かな水紋が広がる。葵は背負っている白衣を畳み、手際よくでもぎこちなくバッグに押し込んだ。指先が冷たい。窓の外、門の外灯がにじんで見える。雨粒に溶けた光が、門柱の木目を薄く撫でていた。

「そんなに急いでどうするの?」

朔の声が、玄関脇の風呂場の小窓越しに差し込んだ温気と一緒に入ってきた。朔は濡れた髪を手でざっと撫でつけながら、肩に小さな木箱を抱えていた。小箱の表面には、濡れた手で触れたような跡がついている――二人の指紋が重なった跡だった。

「荷物は最低限ね。書類も、教科書も。これ以上、何か出てきたら……」葵は言葉を切った。喉に引っかかった言葉をどう振りほどいていいかわからない。声にしてしまえば決着なのかもしれない。だが決着が怖くて、彼女はまだ扉の前に立っている。

椿が工具箱を引きずりながら土間に入ってきた。彼女の手は油で黒ずみ、袖口には木くずが付いている。椿は葵に向かってにっこりともしない顔で箱を差し出した。

「これ、今ね。みんなで作った。朔が塗って、礼が刻んで、私が削って。元はあの襖の端材。古民家の余り物で、ただの箱。でも、これがあれば少し時間が稼げるかと思って」

朔は窓の外の雨をちらりと見て、葵の目をまっすぐ見た。「出て行くなら、今日今すぐでしょ。でも椿が作ってくれたのは、"急に決めないで"ってこと。ここに手を入れてくれれば、私たちの意思はそこに残る。葵が決めるための時間をくれるってことさ」

葵は箱を受け取った。木の香りが濡れた空気と混ざって、どこか懐かしい匂いがした。表面には粗い彫り跡と、誰かが押し付けた掌の温もりのようなものが残っている。――それは、彼女の能力が触知する「痕跡」の感触だった。

「触っていい?」葵の声は震えた。問いかけではなく、確認のためだった。触れれば、彼女はその痕跡から、共同制作に込められた気持ちの残響を拾える。誰がどれほど留まる意思を持っているか、ある程度はわかる。だが条件がある。共同で作られた物に限ること、そして決めつけるように見ようとすれば痕跡は曖昧になること。急いで作れば、そもそも痕跡自体が壊れること。

朔は首を振った。「頼むよ。見ないでくれ。見なくてもいい。僕らの言葉で充分だ」

だが葵の指は既に、箱の蓋に触れていた。木の冷たさが皮膚を通して伝わる。最初に感じたのは、柔らかなぬくもり。まるで誰かが浅い息を吹き込んだような、取りとめのない温度の波が指先から拡がった。次に、指の腹に小さな文字が浮かぶ感覚。朔の笑い声、椿の手つき、礼が最後にささやいた「ここにいるよ」という短い言葉。映像ではなく、匂いと触覚が結び付いたような断片が順に通り過ぎる。

葵はそれを追おうとした。「礼は──礼は残るの?」

問いは刃のようだった。指先で一人を指し示すように、特定の答えを求めた瞬間、箱の表面が霧の向こうへと消える感覚がした。痕跡は一気に薄れ、指先に残っていた温度がスッと冷たくなった。心臓が早鐘を打ち、頭の中に静かな圧迫が生まれる。

「止めて!」椿が叫んだ。朔も手を伸ばした。だが遅かった。葵は膝を折り、そのまま土間に座り込んだ。視界の端がぼやけ、雨音がヴァイオリンのように裂けて聞こえる。唇が乾き、味覚が消えたようだ。胸の奥で、何かがひび割れる音がした。それは瓦がひび割れる小さな音と同じくらい、冷たい。

「葵!」朔の手が彼女の肩をしっかりと掴んだ。ぬくもりが戻ってくる――朔の体温が伝わり、呼吸が揃う。少しずつ視界が戻ると、箱の蓋は小さな割れ目を残していた。そこに走った筋が、狼狽えて無理矢理押し締められた木材の断面を晒している。急いで作った跡だ。接合部には木の繊維が潰れていて、痕跡として残るべきはずのものが断ち切られていた。

「ごめん……ごめんなさい、見ようとして……」葵は言葉を詰まらせた。口の中が乾いて、明瞭な言葉が出てこない。あの「見ようとした瞬間」のペナルティが、じんわりと体に返ってきている。頭痛と倦怠、そして、確かに一つ、細部の記憶がすっと消えてしまった感覚があった。――昨夜、家の縁側で誰と何を話したか、その一部がぽっかりと抜け落ちている。

椿は葵の手を取って、無言で濡れたタオルを渡した。朔と礼が隣に並び、三人の肩が寄る。雨は止む気配がない。土間の灯りが、濡れた床に反射して揺れている。

「決めつけるために痕跡を使うんじゃない。痕跡は、僕らがどうしてここにいるかを示すものだ。それを裁定に使われたら、痕跡は自分を守れない。葵はいつも、自分で答えを出せる人だったはずだよ」

礼の声は静かだが、説得力があった。彼は傍らの椅子に座って、古い懐中電灯を取り出す。光が雨粒を切って、外の路地にちらりと白く線を描いた。

「制度のことは怖い。私も知ってる、あの書類が来たときの冷たさ。けど、葵を守るのは私たち。他人が"職業リスク"と言うなら、それは私たちが話をして覆すべきことだと思う。出て行くんじゃなくて、ここにいるって意思を示してほしい」

朔がえらそうに胸を張る。葵はそれを見て、ふっと笑ってしまうほど情けない気持ちになった。笑いはすぐに消え、また雨の音だけが漂った。

「私がここにいると宣言して、それで監査が来たら問い詰められるだけじゃない?」葵の言葉は小さい。恐れが入り混じっている。医学生としての将来、研修のこと、推薦状、大学側の評価。制度は"職業リスク"という言葉で彼女の進路を握りつぶす。だが朔たちは、単に陪審のように彼女の運命を決めかねない第三者の判断を受け入れるつもりはなかった。

礼は箱の割れ目を見つめ、深く息をついた。「じゃあ、これを証拠にするんじゃなくて、時間をくれ。私たち、ここに残る。監査が来たら、話をする。私たちがどうしてここにいるのか、説明する。それで駄目なら、それでいい。葵が逃げたくなるなら、ここで一緒に逃げる。ただ、今は――あなたが"一人で出る"って決める必要はない」

椿が言葉を続けた。「私たちにはそれぞれ事情がある。誰かの選択を奪われたくない。だから、あなたが選び直せる時間をくれ。私たちがここで、葵の居場所を守る。あなたは、その間だけ休んで」

その一言が、葵の胸の中に沈んでいた石を少し動かした。休む、ということ。彼女はいつも、休むことを罪深く思っていた。誰かを守るために働き続け、勉強し、理想の医者像に向かって自分を削ってきた。だが「一緒に休む」ことは、別の勇気がいる。誰かと同じ瞬間に肩の力を抜くこと。見返りを期待しない時間を共有すること。

「でも、私が選べなかったらどうするの?」葵は震える声で言った。「もし私が結局ここにいられないって決めて、仲間に迷惑をかけたら……」

朔は葵の手をしっかりと握った。掌の温度が、生々しい現実を伝える。「迷惑なんて言わせない。ここはあなたの家だ。私たちが勝手に居座ってるんじゃない。ここで一緒に暮らした時間は、誰にも奪わせない」

その言葉に、葵は涙がこぼれないように目を閉じた。雨の音が鼓膜に響く。箱の割れた断面に、雨水がポツリと一滴落ちた。滲む水は、彫り跡を更にぼやけさせる。あのとき彼女が決めつ