劇場の奈落で代筆屋と依頼人は気まずい再会をやり直す 第9話「第8章」
奈落の空気はいつもより重かった。舞台の暗がりをくぐるようにして伸びる鉄の梯子を三段降りると、そこは古い木の床と、借りものの匂いが混ざった地下の匣(はこ)だった。薄明かりは二つだけ。ケーブルの隙間から青白い灯りが漏れ、埃が糸のように宙を横切る。壁際に積まれた小道具箱の上に、紐で縛られた小さな箱が一つ置かれていた。
奈落の空気はいつもより重かった。舞台の暗がりをくぐるようにして伸びる鉄の梯子を三段降りると、そこは古い木の床と、借りものの匂いが混ざった地下の匣(はこ)だった。薄明かりは二つだけ。ケーブルの隙間から青白い灯りが漏れ、埃が糸のように宙を横切る。壁際に積まれた小道具箱の上に、紐で縛られた小さな箱が一つ置かれていた。
「来たか、蒼(あおい)。早いな」
椿恵(つばき・めぐみ)が手袋をはめたまま、段ボールの端を指で弾いた。顔に浮かぶ笑みは無理をしているのが見えた。恵は小道具係だ。いつもなら冗談を飛ばして場を和ませる。だが今日は違う。肩にかかったライトが時折彼女の目を白く照らし、それが心配の鋭さを浮かび上がらせていた。
「どうしてここで?」蒼(ふでもり・蒼)は手に持った小さなペンを握りしめた。掌に伝わる感触に、いつもの微かな振動があった。共同で作った何かにだけ残る――あの感触だ。うまくいけば、莉央(りお)との気まずさをやり直せる。だがその代償が頭の中でちらつく。急ぐと壊れる。決めつけるほど見えなくなる。
「公演評価局に出す前に、まずはここで試したかったの」恵は低く言った。「外に出すとまた騒ぎになる。公の場で見せられるクオリティか、私たちで確認しようって。颯(はやて)が録って、黒沢(くろさわ)が編集して、短くまとめてから――」
「颯が?」蒼は身を縮める。若い技術員、飯田颯は仲間の一人だ。彼は情熱的で、行動が先に出る。前に無断で公開実験の一部を切り出してしまい、騒ぎを大きくしたのは彼のせいでもある。
「うん。颯が自主上映の手筈を整えてる。観客は招待制、評価局には出さない。でも、編集で補助して、共同作業の見せ方を濃くする――つまり“早く完成させる”って手だよ」恵の声には緊張が混じった。
蒼は箱を開ける。中には古ぼけた台本と、使い込まれた小さな木片。二人で触れて形を整えた小道具の試作だ。木の節目に指を走らせると、かすかな温度が戻ってくる。そこに残るのは、先に莉央と蒼が共同で書き残した言葉の痕跡。だがそれは薄かった。公開実験の評価で叩かれた余波で、共同作業を急ぐことに対する反発が強まり、みんな焦っている。
「急ぐのは駄目だ」蒼の声は静かだが固かった。「共同で、少しずつ積み上げるんだ。俺のやり方は――」
「その“やり方”じゃ時間が足りないって判断したの、蒼」恵が割って入る。「莉央は待てない。あの公開の夜から、彼女はいつも自分を責めてる。自分で選べるはずなのに、噂が彼女を固めてる。颯は、その殻を裂きたがってるんだよ」
恵の言葉に、蒼の手が少し震えた。莉央。彼女は舞台袖で俯いていた。今日、彼女はここへ来ると自分で決めたらしい。蒼はその意志を尊重したい。だけど――能力の縛りが頭の中で鳴る。共同制作とは、ただ二人が同じ物を触ることではない。意思の共有。相手が心の一部を置いていく、その時間の積み重ねだ。偽の共有や演出でそれを速成すると、痕跡は薄く、そして剥がれる。
「蒼、頼む」恵の目が揺れた。「君がいなければ、共同にならない。君の“読み取り”があるから成立する。だから、ちょっとだけ――」
言葉の途中で奥から足音が近づいた。颯が息を切らして駆け込んでくる。彼の手には小型の投影機と、急造のスクリプトが一束。顔は赤く、目は熱い。
「時間がないんだ! 黒沢さんが外で待ってる。招待客はもう来てる。今やらないと――」颯の声は震えていたが、その熱意だけは本物だ。
莉央が立ち上がる。舞台袖に残っていた彼女のシルエットが、薄い光の縁で切り取られる。彼女は無言でこちらに向かってくる。肩にかかったコートの布地が擦れる音が、奈落の静寂に小さく広がった。
「莉央、入って」蒼は声を出す。彼女はゆっくりと箱の近くに来て、木片に手を伸ばす。二人の指先が同じ木の節に重なった。熱が交わる。外から見ればそれが“共同”の瞬間だろう。中身としては、火花が散るような感覚が胸に走った。
蒼はその感覚を読もうとした。通常は相手と同じ動作を何度か繰り返して、微かな残滓を拾う。だが今回は違う。周囲の空気が迫る。颯の編集で短時間に完成させるという計画のせいで、みんなが時計の針に縛られている。蒼は一歩欲を出して、莉央の心の枝分かれを先取りして見ようとした――ほんの一瞬、彼女の言葉を確定させようと。
「それ、やめて」莉央の声が震えた。だが声は小さく、蒼の行為を止められなかった。彼は勝手に言葉を読み取り、その解釈を莉央に重ねようとした。そうするほどに、木の表面が白く光り始める。二人が共有したはずの痕跡が、急速に文章として浮かび上がる。
「――ごめん、蒼。あの夜のことは――」木目に文字が現れる。蒼の胸が跳ねる。見えた。だがその瞬間、周囲の空気が裂けるような音を立てた。舞台の床がミシリと鳴り、古いワイヤーがきしむ。木片の角が斜めに欠け、文字の端がぼやけていく。
「やっぱり!」恵が叫ぶ。「急ぎすぎた!」
文字は走り書きのように崩れ、意味の輪郭が消えていく。蒼は手を引いた。掌の中に熱が残る。胸に波紋のような空白が広がり、目の端が揺れる。立っていたはずの記憶の一部が、ふっと薄れていった。初めて莉央と出会った日の、舞台の匂いと彼女が投げた笑い声の断片が、あたかも指の隙間から零れ落ちる砂のように消えた。
「蒼、顔色が…」恵が支えようとする。颯は浮かない顔で投影機のスイッチを切った。黒沢の編集室から、予備の映像が届くはずだったが、電話は鳴らない。外では誰かがざわめき、評判を求める目がこちらに向き始めている。
蒼はじっと木片を見る。そこに残ったのは、半ば崩れた言葉と、二人が共有した瞬間の断片だけだった。見ようとすればするほど、それは遠ざかる。能力は、痕跡そのものを固定化できない。決めつけ、解釈する行為が強ければ強いほど、痕跡は溶ける。
「申し訳ない、俺が——」蒼は立ち上がった。胸の奥が冷たくなる。記憶の喪失は小さな代償では済まない。以前の利用でも、蒼はその代償を肌で知っていた。自分の過去の一ページを代わりに消してしまうことがある。だが今の失い方は違った。急ぎが引き起こした破壊。共同作業の過程そのものが壊れると、痕跡は消え、代筆屋自身の内側の結び目がほどける。
「俺が独りよがりに先回りした。言葉を決めつけた。だから壊れたんだ」蒼の声は風に揺れるように弱かった。
莉央は木片をそっと抱きしめた。目に涙が溜まっている。彼女の指先に小さな切り傷が光った。共同制作の最中に物が壊れると、肉体的に代償を負うこともある。あの夜、莉央は大切なものを失ったと自分で言っていた。今、それがまた起きたのだ。
「莉央、どうしたい?」恵が聞いた。周囲の空気が一瞬静まる。外で誰かが拍手をしているような音が、薄く回り込んでくる。招待客が待つと言われた時間は迫っている。ここでやり直すのか、引くのか。時間の圧力が選択を迫る。
莉央はゆっくり顔を上げた。目の奥にあるのは怒りでも、諦めでもない。何かが決まるその瞬間の、静かな確かさだ。
「私、一人でやるつもりはない」彼女はかすれた声で言った。「だから、急がないでほしい。噂や評価のせいで、私たちを商品にするなら、それは違う。私が選べるのは