劇場の奈落で代筆屋と依頼人は気まずい再会をやり直す

劇場の奈落で代筆屋と依頼人は気まずい再会をやり直す 第8話「第7章」

奈落の闇は、言葉よりも重かった。舞台下の空気は古い木材と油と汗の匂いに満ち、天井から垂れたロープが微かに震えている。白石透は、そこに沈んだまま、つま先だけで箱形の機材ケースを押しやるようにしていた。足先に伝わる微振動は、上の演目で盛り上がった拍手の余韻が伝わってくるせいかもしれない。だが彼の視線は、奈落の最も暗い一点──観客席に通じる小さな扉に釘付けだった。

奈落の闇は、言葉よりも重かった。舞台下の空気は古い木材と油と汗の匂いに満ち、天井から垂れたロープが微かに震えている。白石透は、そこに沈んだまま、つま先だけで箱形の機材ケースを押しやるようにしていた。足先に伝わる微振動は、上の演目で盛り上がった拍手の余韻が伝わってくるせいかもしれない。だが彼の視線は、奈落の最も暗い一点──観客席に通じる小さな扉に釘付けだった。

「そんなに下にこもってると、埃で肺までやられるよ」高瀬さやかが、上からしゃがみ込んで透の肩越しに顔をのぞかせた。彼女の声はいつもよりやわらかく、しかし決してぶれない。舞台の匂いと化粧の残り香が混じりあって、吸い込むと強く現実に引き戻される。

「ここなら声が届かないから、考え事がしやすい」透は短く答え、手の中の小箱を軽く握った。箱は薄い紙で包んだプログラムの束——観客参加用の“失敗の手紙”を入れるために作ったものだ。彼と依頼人の藤野海里が、密かに痕跡を刻むための媒体として選んだもの。共同で折りたたみ、書き、封をして初めて、彼の能力はそこに残る。そうやって二人の「やり直し」を形にするはずだった。

「今日、三瓶から案が出たんだ。観客がそのプログラムを回し読みして、次の一節を拍手で選ぶってどう?」高瀬が上体を乗り出す。照明の温度で彼女の頬が紅く光る。背中の筋肉までもが踊るような熱量をもっていた。「要は失敗を“共有”する。噂や評価で消費されるのを、参加で希釈するってわけ」

三瓶翼が奈落の縁に立って、軽く拍手のリズムを打った。軽やかな音が低い木の板に響き、遠くの観客席の影を震わせる。「やっぱり、台本通りに上手くやらないことで得られるものって見えるはずだろ。観客が選べば、誰も一人で責められない」

透は箱の薄紙の端を指で滑らせた。紙の繊維が指先にざらつく。触感は確かなのに、心の中に浮かぶ“海里の気持ち”は、いつもより細く、ぼやけている気がした。共同制作だ。彼はそう自分に言い聞かせた。だが「共同」の輪郭が大きくなればなるほど、痕跡は細くなる。観客の手が入るというのは、輪郭が膨らむことを意味する。

「観客が混ざるって……」透は息を吐いた。「それは“二人の痕跡”を薄める危険がある。僕のやり方では、二人で作ることにしか残らない。第三者が入れば、痕跡は割れるかもしれない」

高瀬は真剣な目で彼を見た。「割れるのも一つの結果よ、透。私たちはこれ以上、依頼人の海里を守るために内輪でだけやってられない。外に出たら彼女自身が決められる場所を作りたい」

根岸梨央が机の上でペンを叩く音が、奈落に低く落ちる。梨央は舞台監督で、数字と時間に厳しい。彼女の眉はきつく結ばれていたが、口角には決意の皺が寄る。「運営が条件付きで許可してくれた。相良さんが“参加型なら客層が広がる”って。けど、配信は絶対に外せないと言われた」

その言葉に、透の心臓が一拍大きく跳ねた。配信──視線は不特定多数に拡張する。もしここで“やり直し”が失敗したら、あるいは台本を仕込もうとしていると見られたら、海里の評判は奈落より深く沈むだろう。

三瓶が軽く笑った。「でも、海里はそれも承知してる。彼女、自分の選択を人前に晒す覚悟はできてるよ。だから俺たちは、ただの演出で彼女を守るんじゃなくて、場を作るんだ」

海里はその瞬間、透の横に姿を現した。舞台のライトに照らされて、額に汗が光っている。彼女の存在感は、奈落の暗がりに春の風を吹き込んだようだった。透は胸の奥がぎゅっと縮むのを感じる。昔の再会の痛みがまだ消えていないことを自覚する。

「透、あなたがやり方を怖がるなら、私が決めるよ」海里の声は低い。紙の束を彼からそっと取り上げる。指先が触れたとき、透は見覚えのある震えを感じた──彼女の痕跡が、紙に未だ何かを残していると期待する震えだ。

透は手を伸ばしてその紙の端を掴もうとした。無意識に、彼は痕跡を“先読み”しようとした。ほんの一瞬、どの言葉がその紙に残るかを予測して、海里の代わりに配置しようとする。――決めつけることで、見えなくなる。思い出はいつも、そうやって彼を罠にかけた。

次の瞬間、彼の視界が白く滲んだ。胸の奥が硬く締められ、耳鳴りとともに何かが引き剥がされるような痛みが走った。目の前の紙にあるはずの筆跡が、まるで蒸発したかのように淡くぼやける。紙そのものはそこにあるのに、海里の温度が消え失せてしまった。

「透!」高瀬が叫んだ。彼女の声が遠くなる。透は膝をつき、掌の感覚が薄れていくのを感じた。まわりの息遣いははっきりしているのに、視界だけがまるで蝋で塗られたように滑る。目を閉じると、遠い海の匂いがする気がした――だがそれは錯覚かもしれない。

「無理するな」根岸が冷静に言って、透の肩を掴んだ。だが手を離すとき、紙の束がばさりと床に落ち、端が舞台用の釘にひっかかり、一枚が破れて舞台下に滑り落ちた。破れた紙はその裂け目から、けたたましいほど脆弱な音を出した。そこに刻まれつつあったはずの痕跡が、物理的に壊れた音だと透は直感した。

「ごめん……透、どうするの?」海里が震える声で尋ねる。彼女の瞳は光を失っておらず、ただ確かな決意がある。観客に見せるために、彼女は自らの羞恥を差し出す覚悟なのだ。

透は喉を鳴らした。筋肉が震え、言葉が粘る。能力は、彼が過去に幾度も頼りすぎた代わりに残した代償を思い出させた。痕跡を決めつけるほど、彼は見ることを失う。急いで関係をつくろうとすれば、共同制作は壊れる。彼の身体もまた、それを拒絶するように反応した。

三瓶が息を整えて、奈落に足を下ろした。彼の顔には挑発的な笑みが浮かんでいる。「なあ、透。ここで守りに入るか、みんなで壊して再構築するか。どっちが海里にとっていいか、君はどう思う?」

透は沈黙を選んだ。答えは単純ではない。もし自分が全てをコントロールしようとすれば、海里は保護されるように見えるが、同時に選択肢は奪われる。仲間が介入して場を開けば、海里は泥の中を自分で歩くことになるが、その歩みは本物だ。

「俺は……」透はぽつりと言葉を出しかけ、止めた。言葉の先には、恐れがあった。能力は彼にとって、他人の履歴を確かめるための器具であり、同時に盾だった。盾を下ろせば、彼は裸になる。

高瀬は浅く息をつき、上を見上げた。舞台の照明が一筋、奈落の隙間を照らす。光は彼らが作ろうとしているものを真っ直ぐに照らしていた——不完全でも、晒されてもいいものを。

「私たちはやる」彼女は決めたように言った。「観客を巻き込む。失敗も混ぜる。配信もする。全部引き受ける覚悟がある人だけ付き合って」

梨央が小さく頷く。「運営も条件付きで承認した。観客の動員方法も決まった。プログラムは回して、拍手で進行を決める。第三者に痕跡が流れるかもしれない。でも、それでいいかもしれない。海里が自分の声で選べるなら」

海里は透の手を取った。掌の温度が伝わる。透は一瞬、かすかな光を取り戻した気がした。彼女の指の力は柔らかく、しかし確かにそこにあった。

「私は自分の準備ができてる。透が恐いなら、私を守ってくれなくていい。私は、私でいさせて」海里の唇が震える。だがその瞳は揺るがない。

そのとき、奈