劇場の奈落で代筆屋と依頼人は気まずい再会をやり直す

劇場の奈落で代筆屋と依頼人は気まずい再会をやり直す 第17話「第15章」

奈落は冷たかった。舞台の床からえぐられた暗がりは、空気が層になって重なっている。青木景は、手の先でそっと古いワイヤーをたぐりながら、足元に転がった小さな木片を拾い上げた。ほのかなニスの匂いと、舞台の油の匂いが混じって、呼吸のたびに喉の奥がつんとする。

奈落は冷たかった。舞台の床からえぐられた暗がりは、空気が層になって重なっている。青木景は、手の先でそっと古いワイヤーをたぐりながら、足元に転がった小さな木片を拾い上げた。ほのかなニスの匂いと、舞台の油の匂いが混じって、呼吸のたびに喉の奥がつんとする。

「こんなところで何してるんだ」と、低い声が降りてきた。舞台監督の宮田徹がライトの影から出てくる。胸に巻いたスケジュール表の角が折れている。宮田は重そうに腰を下ろし、奈落の鉄柵に手をついた。

「調べ物です」景は木片を指でこすった。表面にはかすかな手触りの起伏があり、以前誰かが彫った跡が残っている。代筆屋として長くやってきた手つきで、景はその起伏に触れて、自分自身の記憶のように慎重に指を動かした。

景の能力は、共同で作ったものにだけ他者の痕跡が残る。だが今は単独で別の共同制作を試す。相手の不在をどう補うか、境界線を探るための実験だ。いくつもの小さな失敗が、ここへ連れてきた。

「また変な実験か」と宮田が眉を寄せる。奈落の空気が二人の間を引き裂くように流れた。舞台上では稽古の音が小さく聞こえる。誰かが床板を踏むたびに、奈落からは金属が鳴る。

景は木片を差し出した。指先が塗料の薄い膜を拾い、ざらつく感触が掌に残る。「誰かと一緒に作ったわけじゃないものでも、手触りや温度を『模擬』して交互に触れると、反応が出るか試しているんです」

宮田はため息をついた。「そんなことしてる暇はない。明日は本番だ。奈落の修繕も入るって連絡あっただろう」

「それで、急ぐほど壊れるかもしれないというのを確かめたいんです」景の声は低く、揺れがないわけではない。彼は木片を膝に乗せ、右手で軽く削り、左手で跡をなぞる。片方の手が“他者”の役割になる――と景は思って、息を深く吸った。

最初の試みはだめだった。景が“他者”の意図を想像して木片に刻んだとたん、表面のかすかな凹凸がむしろ滑らかになっていく気がした。景の視界の端で、何かが引っかかる。頭の中で一瞬、見知った記憶の断片がふっと消えたような痛み。胸の奥がきゅっと締まる。景は慌てて手を引いた。

「ああ、やっぱり」と宮田が言う。「決めつけた瞬間に消えるんだ。前にも見た」

景は顔をしかめる。能力の一つの戒めが、また自分に牙をむいた。痕跡を“これだ”と決めつけるほど、それは見えなくなる。自分の欲望で解釈を早めると、その対象が逃げる。たかが木片でも、彼の身体はそれを忘れない。

だが失敗は終わりではない。景は別のやり方を試した。今度は模擬ではなく、協力者を求めたのだ。奈落の奥から、小田という若い舞台助手がぎこちなく顔を出した。手には古い布切れと小さな刷毛を持っている。

「何をするんですか?」小田は息を切らしながら、だが目は好奇心で光っている。彼は景の頼みを断るほど無神経ではない。舞台で働く者たちは、誰かの“やり直し”を手伝うことに慣れている。

「一緒に、これを塗ってほしい。ゆっくりでいい。急がないで」景はそう言って、布切れの端を差し出す。二人は向かい合い、奈落の薄暗さのなかで、刷毛を交互に動かした。刷毛の毛先が織物を走る音、重ねられる呼吸。世界が狭くなって、二人だけの時間が生まれる。

共同制作が進むにつれて、布切れにほんのり温度が残り始めた。景の内側に鋭い手応えが走る。痕跡は言葉ではなく、リズムと小さな記号として布に浮かんだ。二人が同じ速度で刷毛を返し合った瞬間、布はほかの何にも似ていない、二人だけの呼吸の印になった。

「見える?」と景は小声で尋ねた。

小田は首をかしげ、黙って布に触れ直す。静けさの中、布の端から淡い光のようなものが差したように景には感じられた。だが景は慌てて解釈しなかった。先にやった失敗が胸の奥で針になっている。痕跡を“これだ”と決めつけた瞬間に消えるのを、二度と見たくなかった。

「急がないで」と景は繰り返した。小田は静かにうなずいた。二人でつくった布は、確かに何かを持っていた。しかしそれは言葉で説明できるものではなかった。景はゆっくりと、その感触を胸にしまう。

その頃、劇場の別の場所では、佐伯真琴が元恋人の瀬川翔太と向き合っていた。舞台袖の薄暗がり、リハーサル用の椅子が並ぶ廊下。真琴は手のひらに小さな紙片を握りしめている。先日、景が代筆した手紙の抜粋を自分で読み直し、彼女は自分の声を整えた。

「今日は、短く。非公式に」と彼女は自分に言い聞かせる。翔太は不器用に笑い、真琴の言葉を待った。

「久しぶりだな?」と翔太。声に感情が乗る。二人の間には観客はいないが、見られているような緊張感があった。舞台の外側で人々が出たり入ったりする足音が、遠いリズムとなって二人に重なる。

真琴は軽く笑った。「うん。久しぶり」

会話はぎこちない。過去の重さを直接持ち出さずに、互いの近況を交換する。翔太は新しい仕事のこと、真琴は短い稽古の日々のことを話す。二人が同じコーヒーカップを持ち替えるように、物理的な接触はほとんどなかったが、小さな表情のすれ違いが確かにあった。

真琴は、景が示してくれた“共同制作”のヒントを試すつもりで来ている。二人で何かを作ること。急がないで、手を重ねて、一つの所作を共有すること。だから、話の途中で彼女は紙片を取り出し、翔太に差し出した。

「これ、持っててくれる?」と彼女は言う。紙片は二人が一度だけ共同で折ったメモだ。完全な共同制作ではない。だが両者が同じ瞬間に指を添えたものだ。

翔太は紙を受け取り、指先が触れ合った。ほんの短い接触。それでも翔太の顔に微かな変化が走った。紙の繊維の温度が、時間の幅を一瞬だけ広げたような錯覚。二人がほんの瞬間、同じ身体の動きを共有した。だが真琴はそれが十分ではないことを直感した。

「これだけじゃ、だめなんだ」と彼女は自分の胸の中の声に耳を澄ます。翔太は少し戸惑いながら、「何がだめなんだ?」と訊いた。

「……一緒に作る時間が、欲しい。短くてもいい。奈落で、ちょっとした場をつくらない?」真琴の提案は控えめだった。奈落はかつて彼らにとって恐れの象徴だったが、同時に最も正直になれる場所でもある。舞台の濃密さに押しつぶされそうになる代わりに、そこでなら言葉を置きさることができるかもしれない。

翔太は黙った。廊下の向こうで誰かが笑う声がかすかに漏れ、窓のない空間に音がたまる。彼は紙を丸めてポケットに入れ、ゆっくりと顔を上げた。

「今夜か?」と翔太が尋ねる。真琴はうなずいた。だがそのとき、劇場の壁に貼られた張り紙が目に入った。来週から奈落の全面封鎖、老朽化による改築のためという告知だ。小さな活字は冷たく、明確だった。

二人は同時にそれを見る。時間が突如として窮屈になる。明日ではなく、今夜しかなかった。

舞台に戻った景は、布を抱えながら奈落の気温が少し上がったのを感じた。小田は、先に立ち上がりながら、「あの人たち、今日ここに来るって話した?」と訊いた。景は震える声で首を振る。彼は小田の目を見て、決めたことを告げた。

「来るかどうか、わからない。だけど、今夜、ここで一つ本物の共同制作をやる。急がない。奈落は明日から使えない。選択肢は一つしかない」