劇場の奈落で代筆屋と依頼人は気まずい再会をやり直す

劇場の奈落で代筆屋と依頼人は気まずい再会をやり直す 第16話「第14章」

奈落の空気はいつもより重かった。木の床板の合間から冷たい空気が這い上がり、白い息がひとつ、ふたつと消える。結城浬(ゆうき・かいり)は膝をつき、短く切った和紙に漆喰のような糊を摺(す)りつけながら、舞台の上から落ちてくる音を聞いていた。上手の照明が通路を走ると、奈落の壁に貼られた古いポスターの縁が金色に光る。紙と糊の匂い、古びた綱の油の匂い。劇場は彼女と彼が二人で作るものにとって最適でもあり、最も危うい骨組みでもあった。

奈落の空気はいつもより重かった。木の床板の合間から冷たい空気が這い上がり、白い息がひとつ、ふたつと消える。結城浬(ゆうき・かいり)は膝をつき、短く切った和紙に漆喰のような糊を摺(す)りつけながら、舞台の上から落ちてくる音を聞いていた。上手の照明が通路を走ると、奈落の壁に貼られた古いポスターの縁が金色に光る。紙と糊の匂い、古びた綱の油の匂い。劇場は彼女と彼が二人で作るものにとって最適でもあり、最も危うい骨組みでもあった。

「息、合わせて――」小笠原澪(おがさわら・みお)が低く言った。手元の和紙を彼の手と合わせる。二人の指先が重なる瞬間、和紙の繊維が微かに震えるように光った。浬はその変化に目を凝らす。共同で触れ、共同で成すものだけが残す痕跡。彼が代筆屋として長年抱えてきた、小さくて不完全な奇蹟だ。

和紙の上に、二人が同時に押した指紋の跡から、文字のかけらが浮かび上がった。断片的な言葉――「ご」「め」「ん」ではないかと見えなくもない。だが形は確定できず、どんな解釈もその粒を塵に変える。浬は言葉にしない。決めつければ痕跡は消える。彼はその制約を、今日ほどはっきりと感じたことはなかった。

「……あの時、どうして出て行ったの?」澪の声にひびが入る。木の床に伝わる声は、上の舞台にいる誰かに聞かれるかもしれない緊張を帯びる。澪の手は震えている。上手の袖から、時折、靴音が静かに落ちてくる。元恋人がこの劇場のどこかにいるかもしれないという不安が、彼女を急かしていた。

浬は和紙の隅を押さえ、呼吸を整えた。共同制作は、焦りを許さない。焦るほど、繊維同士が噛み合う前に力をかけてしまい、つながるはずの糸が切れる。――彼はそれを、己の体で知っている。数年前、ひとつの依頼を急いで仕上げた夜、彼は右手の感覚を三日ほど失った。利き手の感覚が戻るまでの間、何枚も宛名が歪んだ。代償は、目に見えないところで、確かに徴収される。

「落ち着いて。君が何を望んでいるのか、僕たちがどうやってここからやり直すのかは、掴めるようにしよう」浬は穏やかに言ったつもりだったが、澪は嗚咽まじりに一歩前へ出る。彼女は自分の声を和紙に押し付けるようにして言葉を投げた。

「彼、私に嘘をついてた。評定局に相談してたって……聞いたのよ。私、評価されてたの。私の選択を誰かに点数にされてたの」

その言葉が、奈落の空気をさらにざわつかせる。評定局。澪の前の恋人、佐藤颯(さとう・はやて)の名が、彼女の口から出た瞬間、浬の中の警戒が鋭くなる。評定局は、個人の感情を数値化して社会に流通させる仕組みを作ることで、弱い選択を奪っていた。中盤で彼らが見たひび割れが、単なる個人の裏切りではなく制度の外套をまとっているという認識が、ここに繋がる。

「だから……やり直したいの。せめて、私たちの間だけの痕跡があれば」澪は和紙を強く押した。二人の指先が同時に和紙に触れたその瞬間、さざなみのような模様が広がる。過去の感情の残滓。澪の胸の奥でぶつかった不安と望みが、薄い文字片となって浮かんだ。

だが澪は待てなかった。頭の中で、彼女はすぐに意味を決めつけ、言葉を補おうとした。「これは――謝罪の証。彼が言えなかった『ごめん』がここにあるはずよ」その言葉を発したとたん、和紙の文字片はひび割れた砂に変わった。紛れもない因果。決めつけた瞬間に痕跡は崩れた。和紙の表面に入った亀裂が、まるで罰のように広がる。

「駄目だ」浬は唇を噛み、手の中の糊の感触を確かめる。焦りが伝わる。その焦りを彼が自分の内側で抑えなければ、共同制作は保たれない。澪は肩を震わせた。泣きたいのか、叫びたいのか、どちらでもいい。彼女の感情が暴走すると、作業は壊れる。浬はゆっくりと、別の和紙を取り出す。

そのとき、奈落の幕が微かに揺れ、床の奥から小さな金属音がした。浬の横で、舞台監督だった松倉リツコが駆け込んできた。彼女は舞台袖で見つけたものを手にしていた。手のひらに収まる小さな録音モジュール、その表面には小さな識別シールが貼られている。識別文字はかすれていたが、「評定局―記録端末」と読み取れた。

「これ、見つけたの。奈落の縁に落ちてて」リツコの声は切迫している。岡部柊(おかべ・しゅう)も続いて入ってきた。彼は舞台の電気を管理する男で、小さな工具箱を抱えている。額に汗。舞台の上から降りてくる靴音が、彼らがどれだけ時間を浪費できないかを告げていた。

浬がモジュールを受け取り、澪と視線を交わす。モジュールを起動すると、記録されたファイルが一覧で現れた。そこには、舞台の小道具や衣装に対する評価タグと共に、いくつもの人名が並んでいる。スクロールを落とすと、見覚えのある文字列が見えた。

「結城 浬――対象A」画面の文字が冷たく彼の胸を突いた。彼の名が、すでに評定局の対象として登録されている。胸の奥の血が冷たくなった。浬はモジュールを落としそうになり、ぎりぎりで踏みとどまる。

「どういうことだ?」澪が詰め寄る。リツコは顔を曇らせ、岡部は工具箱から短いコードを取り出して端末に差し込んだ。画面には、浬が過去に関与した共同制作のスナップショットがいくつも並ぶ。評定局は、対象者に関わる“痕跡”を収集し、数値化していた。浬の持つ共同制作の特性は、そこで商品価値として扱われうる。

「彼らは、僕たちの痕跡を測りたいんだ」浬は小さく呻いた。言葉にすることで現実になった危機は、冷たい波紋を奈落に広げる。澪の目が大きくなる。彼女の手は再び固くなった。

「それは……利用されるってこと?」澪の問いを岡部が短く肯く。リツコは苛立ちを抑えきれずに、モジュールを鋭く見つめた。

「彼、佐藤颯の周辺でこういう端末が見つかる。彼は評定局と繋がりがあるって噂もあったけど、まさか」澪の指先が震える。評定局の仕組みは、弱い者から選択肢を奪い、誰かのための“安心”を作りながら、実は私利私欲の資本になっている。浬の能力は、その資本にとって餌にもなり得る。

「端末がここにあったってことは、上から監視されてた可能性がある。今日、どこかで僕らを見張ってるかもしれない」岡部は目配せして、舞台の上の匂いを嗅ぐように首を傾げる。確かに、上の廊下に立つ誰かの影がちらついた。澪は急に苛立ちを募らせ、舞台の奈落の床に手をついたまま決意したように言った。

「私は行く。颯と話す。ここで待つのは無理だ。彼がここにいるなら、直接聞くしかない」

浬は首を振った。二人でやり直すためにここまで来たはずだ。だが澪の顔からは、もう誰かの介入を受け入れたくない強さが滲んでいた。浬は彼女の手を掴んだが、彼女はその手を振りほどく。

「だめよ、浬。あなたはここにいて。あなたの仕事は、私たちの痕跡を守ること。評定局に取られたら、私のことなんて研究材料にされるだけでしょ。私の選択は、私のものにしたいの」

言葉の終わりと同時に、上の廊下でドアが静かに開く音がした。鋭い視線が奈落を覗き込み、寒い声が下りてきた。

「小笠原さん、そういうところに隠れているとはね」低い声。佐藤颯だった。彼は上から身を乗り出し、下を見下ろしている。スーツの袖口からわずかに見える評定局の名刺入れが、暗い光を反射した。彼の顔