離島の診療所で離婚相談を受ける新人は故郷に帰る理由を探す

離島の診療所で離婚相談を受ける新人は故郷に帰る理由を探す 第9話「第8章」

木造の公民館は、潮の匂いとともに午後の斜光を取り込んでいた。畳の上には色とりどりの布片が広げられ、半完成のタペストリーが床に横たわっている。細い糸が縺れ、針目がまだ湿っているところに、島の人々の低い声が波のように重なっていた。

木造の公民館は、潮の匂いとともに午後の斜光を取り込んでいた。畳の上には色とりどりの布片が広げられ、半完成のタペストリーが床に横たわっている。細い糸が縺れ、針目がまだ湿っているところに、島の人々の低い声が波のように重なっていた。

「上手、上手ですよ、紗良さん」
「もう少しで繋がるね、航くん」

蒼はそっと近づいた。手にした包帯と診察用のペンをぽんとポケットに押し込み、視線を落とす。共同で編まれた布の一角に、強い「痕」が刺すように感じられた――人の感情が織り込まれた匂いのようなもの、温度の残滓。蒼はいつものようにそれを「共痕」と無意識に呼んだ。二人以上が同じ動機で作ったものにだけ、誰かの気持ちが染み付く。それを辿れば、どこで関係が緩んだのか、どの瞬間に誰が折れたのかが見える。だが蒼は長く経験しているから、共痕には条件があることも知っていた。決めつければ見えなくなる。急げば、壊れる。

「ここ、紗良さんの赤ちゃんの名前を縫い込んだら、きっといいよ」
「うん……でも、私、うまくできるかな」

紗良は幼い子を抱えた若い母親だった。顔は疲れているが目だけは澄んでいる。糸を握る手が微かに震え、布が彼女の胸に吸い込まれるように寄り添っていた。蒼は指先にその震えの輪郭を感じ、紗良ともう一人の参加者――航の交差点に記憶が堆積しているのをたしかめた。そこに蒼は、強い共痕を見た。だが次の瞬間、空気が切り替わった。

「すみません、やっぱり無理です」紗良が急に立ち上がった。声には慌てが混じる。片手に、封筒が握られていた。白地に黒い活字が並ぶ。それは家賃督促の通知だった。色がみるみる蒼の視界に冷たく広がり、部屋の音が収縮する。

「ちょっと、どうしたんだ?」航が手を伸ばした。だが紗良はその手を振り払うように、布を掴んで床に投げつけた。針が光を跳ね、針先が紗良の指を擦ったのか、微かな赤が滲んだ。

「これ、やめる。もう、こんなの――」

言いかけて紗良は布の中央を、渾身の力で引き裂いた。裂ける音は枯れた椿のように鋭く、タペストリーの模様が一瞬にして崩れ落ちた。布の端が宙を切る。蒼はその動きをスローモーションで見るしかなかった。遠心で飛んだ小さな縫い針が、里枝の頬をかすめ、糸の房が風に舞う。時間は薄く伸び、音は遠くなる。蒼の胸の中にあった共痕が――さっと消えたように感じた。

「紗良!」航の声が割れた。里枝が飛びついて布を抱き留めようとしている。だが布の破片は床に落ち、縫い目の跡は断絶した線として残っただけだった。蒼は反射的に手を伸ばし、壊れた縫い目を掴もうとした。そこにあったはずの温度、言葉、未成熟な約束を確かめるために。だが指先が針に触れ、鋭い痛みが走った。

針先が肉を裂き、血が指ににじむ。暖かさが指の腹を伝い、床に滴る。蒼は痛みに顔を上げる暇もなく、共痕がもう一度立ち上がるのを感じた――しかしそれは布に残るのではなく、指の傷口に収れんしていった。文字通り、蒼の皮膚が「受け皿」になったかのように小さな光の粒が滲む。

「大丈夫か、蒼!」里枝が包帯を取り出す。航が針を拾って口の端でかみ割り、怒りと困惑が顔に刻まれている。紗良は床にへたり込んだまま、封筒をぎゅっと抱えている。目が腫れて、声が震える。

「すまない、私、ここで……もう、全部終わりにしないと」紗良の言葉は干潮の残り香のように弱く、しかしはっきりしていた。里枝と航は互いに視線を交わし、言葉を探す。蒼は血の匂いと、指先に残る微かな温度を感じ続けた。そこに、元の布に宿っていたはずの共痕はない。だが指先の小さな熱は、誰かの決定の残響を入れているように思えた。

「彼女、夜シフトの仕事が入ったんだよね。急に時間替えで、預ける人もいなくて」航が低く言う。里枝は封筒を覗き込み、舌打ちした。「それ、役所への申請が間に合わないやつだ。ワークショップなんかしてる余裕ないって、普通は思うよ」

蒼は、共痕を取り戻そうとする衝動を抑えた。押し付けることで見えなくなること、急ぐことで作品が壊れること。さっきの破壊は、紗良の恐れと時間に追われた判断の結果だった。誰かを責める簡単さが、今ここにある。

「紗良さん、今言えることだけでいい。住むところと、子の預け先は――」里枝が優しく促すと、紗良はぎゅっと唇を噛んだまま封筒を開いた。紙には数字と期日と、冷たい短文が並んでいた。蒼はそれを見た瞬間、制度という巨大な波がどれだけ無慈悲かを理解した。島の小さな経済圏が、隙間なく人の選択を縛り付けているのだ。

「役場に行けば、なんとかなるって話も……」航が言いかけると、里枝が首を振った。「ここの制度は、枠外の人を切り落とす。申請には住民票や連絡先、保証人が必要で――紗良みたいに非正規で転々としてる人は、書類の穴で潰されるの」

蒼は指の包帯を見下ろした。血の滲みは乾き始め、皮膚の下で何かが冷たく脈打っている気がする。共痕が消えたのではない。移動したのだ――壊れた共同体の断片が、蒼自身の身体に寄せられた。押し込めれば見えなくなる。それは能力の代償、だけではない。人の痛みを「預かる」代償でもある。

「彼女を責めてどうにかなる問題じゃない。制度に穴がある」蒼は、普段は穏やかな声を少しだけ硬くして言った。「でも、制度を相手取るのは時間がかかる。今必要なのは、今日の夜を凌ぐ場所と、子どもを預けられる目処だ」

航がぎゅっと拳を握る。「じゃあ、俺たちで何とかしようよ。舟小屋の空きスペース、今は誰も使ってない。夜ならうちの父さんが見てくれるかもしれない。金なら、漁の仲間で一時的に出せるはずだ」

里枝の目が光る。「診療所も、相談窓口として書類手続きの手助けができるかもしれない。枠に合わない人にも寄り添うやり方を、私達で考えよう」

紗良は茫然と二人の顔を見た。震える声で言った。「そんな……でも、私、迷惑かけたくないんです。皆さんの時間を――」

「迷惑なんて思ってないよ」蒼ははっきり言った。言葉は自分の口から出ると同時に、指の包帯の奥で小さく震えた。まるで、その言葉に応えるように指先の温度が一瞬だけ強くなるのを感じる。共痕――ではなく、「結び目」かもしれない。人の決意や約束が皮膚に刻まれるのだとしたら、それは軽い代償ではない。

「まずは今夜のことを決めよう」里枝がテーブルを叩き、皆の表情が少しだけ安堵に変わる。「蒼さん、あなたの手、ちゃんと消毒するわ。話は後で詰めよう」

蒼は里枝に包帯を替えさせながら、視線を落とした。指先の傷口には、わずかな光の粒がまだ残っている。あのとき布に宿っていたはずの声や温度が、どうしてここにあるのか。蒼は考える。能力は相手の本音を奪うものではない。共同で作るという行為の中に、自然に残る痕を辿るだけだ――はずだった。だが今、それが皮膚に宿るということは、誰かの選択を預かることと同義になっている。

「蒼さん」航の声が沈い。「これからどうする? 役場に訴えるのか、それとも――」

蒼は包帯越しに指先を軽く握った。血の匂い、糸屑の粉、海風の混ざった公民館の空気。選択肢は複数あった。制度と対峙する長い道、仲間と直に救済する短い道。どちらにも代償がある。だが蒼はもう一つの事実に気づ