屋台街でライバル店員は最後の夏を記録する 第6話「第5章」
串の脂が焼ける香りが、夜風に混ざって屋台街を満たしていた。悠は鉄板の縁に肘をつき、残り火を扇ぎながら、向かいの屋台の軒先に座る結の背中を目で追った。結の手には分厚い書類が一枚。表紙には「評札会・提案書」とだけ赤く押されているのが見えた。紙は風にそよぎ、文字が瞬いている。
串の脂が焼ける香りが、夜風に混ざって屋台街を満たしていた。悠は鉄板の縁に肘をつき、残り火を扇ぎながら、向かいの屋台の軒先に座る結の背中を目で追った。結の手には分厚い書類が一枚。表紙には「評札会・提案書」とだけ赤く押されているのが見えた。紙は風にそよぎ、文字が瞬いている。
「どうするつもりだよ、結。」店を閉める合図代わりに、悠は言葉を投げた。
結は肩をすくめ、薄い笑いを作る。指先で書類の角を撫でる仕草が、幼い頃に手作りの看板を折ってしまったときの動きと重なった。悠はそれを見逃さない。
「客を増やせるって言われてる。……それだけじゃないけど。顔になる、って。評札会の有力者が勧めるなら、効果はあるだろうって」
「顔って、具体的には?」佳穂が隣から割り込んできた。彼女は悠の旧友で、向こう三軒分の明るさを背負ったような女の子だ。ハンカチで手を拭きながら、結に近づく。
結は息を吐いて、書類を抱えたまま言葉を選んだ。「評札の場で前に立つ。イベントに帯同して宣伝をする。店の写真を公式に使われる、って。あたしが了承したら、期間限定で“顔役”として扱われるらしい」
「利点は?」悠の声は低かった。同時に、胸の奥に小さな棘が刺さるように疼いた。自分の知る結は、見世物にされることを嫌う。だからこそ、あの手書きのメニューや、深夜に二人で直した看板が、彼女の“顔”であり続けていた。
結は肩を落とし、畳んであった白い布を指で引き伸ばした。「客が増えれば、夜も安全になる。店をたたまないで済むかもしれない。……でも、自分の声が外に出るのを、そのまま見られるというのが怖い。評札会の言葉で、あたしがどんなに小さな決断も勝手に語られる気がして」
話を聞きながら、悠の心は微かに震えた。彼は知っていた。共同で作ったものだけに痕跡が残るという自分の力は、相手の本心を“直接読む”道具ではない。だが、その不完全性が、そこにしかない真実を引き出すことをも知っていた。結が自分と一緒に何かを作れば、そこに彼女の心のしわが残る。匂いのように、触れることはできないが確かにそこにある痕跡が。
「……一緒に作らないか?」悠は思わず口に出していた。言葉の重さに自分で驚いた。無意識に出たのは、結の“本音”を直視したいという欲だった。しかし、同じくらいの理由で――守りたいという衝動があった。
結は目を細め、少しだけ笑った。「何を?」
「看板でも、祭のポスターでもいい。二人で作れば、そこに残る。君がどう思っているか、その痕跡を見てみたい」
会話の端で、佳穂の拍手が小さく鳴った。「いいじゃん、それ! お祭りのポスターとか、みんなで手作りしたらウケるって」
だが、悠の胸に別の声が鳴った。力の代償を忘れてはいけない。使うたびに、彼は記憶の一片を失う。細かな思い出かもしれない。笑い声かもしれない。それがいつ、どの部分を奪うかはいつだって予測できない。だが、使わなければ結の選択の前に立てないことも確かだった。
「一回だけだ。ちゃんと、ゆっくり作る。急いで作ったら、痕跡は壊れる」悠は条件を付けた。これは自分の力の禁忌でもあった。共同制作を急ぐほど、その痕跡は薄れ、無意味になるのだ。
結は紙を押しつけるようにして頷いた。「約束する。急がない。評札会の返事は五日後。……それまでに見せてくれる?」
二人は夜の延長のように、屋台の間の狭い空地で鉛筆と絵具を並べた。灯りは提灯が一つ、二つとぶら下がり、インクの黒さが深く映えた。佳穂は見物人のように温かい目で二人を見守る。手が触れるたびに微かな電流が走るように感じ、悠は息を詰めた。これは単なる作業ではない。共同で紡ぐ時間そのものが、跡を刻む。
筆先が布に触れる。結が濃い藍で屋台の軒を描き、悠が淡い朱で灯りを添える。言葉は少なかった。筆を伸ばすときにだけ、結が小声でつぶやく。昔のこと、怖かったこと、評札会に抱いている憤りと期待。彼女の言葉は断片的で、決定的な一言にはならない。それで十分だった。痕跡は、言葉にされなかった“あいだ”に残る。
数時間経ったとき、布の中央に二つの手の影が重なったような模様が現れた。二人が同時に押さえた布目の濃淡が、まるで掌のしわを写したみたいに刻まれている。悠は息を呑んだ。これだ、と思った。その感覚はすべてを証明するような確信を与えた。しかし、同時に古い戒めが耳鳴りのように戻ってくる――痕跡を決めつけてはならない。決めつけるほど、見えなくなる。
「見える?」佳穂が訊く。顔に期待が浮かぶ。
悠は一度目を閉じ、深呼吸した。決めつけない。まずは問う。証拠に最後の一手を加える前に、結に自分の目で聞く。
「この手の影、何を思ったときにできた?」
結は筆を止め、黙ってその場所に指を置いた。指先の位置がわずかに震えている。やがて、結は小さな声で言った。「怖かった。『あたしは誰かの顔になっても平気だ』って言える人になれたら、楽だろうな、って思った。だけど、楽になることと、誰かに決められることは違う。……あなたに、見せたくなかったのは、自分の秘密の部分を勝手に切り取られる気がしたから」
悠はその言葉を胸にしまい、布に手を当てた。痕跡は彼女の言葉を裏切らない。だがそれは「どうしてこう思ったか」を示すだけで、結が最終的にどうするかを決めるものではない。悠はそれをわかっていた。自分が得たのは確かな“ありよう”であって、結の代わりに選ぶ資格ではない。
その夜、布を乾かしている間、悠は奇妙な空白を感じ始めた。最初は肩の力が抜けたようなものだった。だが、ふと、エプロンの胸ポケットにいつも入れている銀の小さな匙のことを思い出そうとして、思考が止まった。匙の柄に刻まれた文字列――母が生前に彫ってくれた、その句が、どうしても出てこない。記憶の端が掻きむしられたように、暗転していた。
「悠、大丈夫?」佳穂の声が近くで響いた。彼女は心配そうに歩み寄り、悠の肩に手を置く。
悠はポケットに手を入れて匙を探した。冷たい金属の感触はある。形も重さもある。だがそれが何であるかを説明する言葉が、彼の舌先でつぶれてしまう。思い出すべき暖かい台所の光景、母の口角が上がる音、誰かが笑ったときの声色――そこにあるはずの一片が、ぽっかりと抜け落ちている。
胸が締め付けられた。代償が来たのだと、悠は悟った。使ったその瞬間から、どこかが削り取られる感覚。記憶は目に見えないけれど、失うと体の一部のように疼く。悠は指先で自分のこめかみを押さえ、息を整えようとした。
その夜、屋台街の裏手で、評札会事務所の若い女性が足早に紙袋を抱えて走ってきた。梨菜――評札会の補佐を務める彼女は、動作の端々に疲労と焦りを滲ませていた。悠はふと目を向け、彼女が近づくのを見た。梨菜は結の屋台の前で立ち止まり、紙袋を差し出す。
「……差し入れ。遅くなってごめん」梨菜の声は小さく、言葉の後ろには言えない事情が滲んでいた。結はそれを受け取ると、相手の目を見て微かに礼をした。
二人の会話は短く、しかし悠は耳を傾けた。梨菜は小声で続ける。「湊さんは……悪い人じゃない。あの形にしないと、評札会自体が立ち行かなくなる。家族が抱えている負債、従業員の生活。彼は