屋台街でライバル店員は最後の夏を記録する

屋台街でライバル店員は最後の夏を記録する 第3話「第2章」

夜風に混じって、焼き鳥の脂と甘い焼き餅の匂いが屋台街を満たしていた。紺色の提灯が揺れ、灯りが路地を橙色に染める。悠は自分の屋台の木製の端で、いつもの油拭きで板を擦りながら、隣の屋台――結の「結び屋」の前を見ていた。結は白い鉢巻きを額に巻き、指先に黒い絵具を付けて小さな紙扇に何かを描いている。彼女の舌先が唇に触れる癖まで、悠ははっきり見えた。

夜風に混じって、焼き鳥の脂と甘い焼き餅の匂いが屋台街を満たしていた。紺色の提灯が揺れ、灯りが路地を橙色に染める。悠は自分の屋台の木製の端で、いつもの油拭きで板を擦りながら、隣の屋台――結の「結び屋」の前を見ていた。結は白い鉢巻きを額に巻き、指先に黒い絵具を付けて小さな紙扇に何かを描いている。彼女の舌先が唇に触れる癖まで、悠ははっきり見えた。

手のひらの中で、彼は折り畳んだ小さな扇を握っていた。去年の夏祭りに二人で作ったものだ。紙の折り目は僅かに黄色を帯びており、隅に彼と結の名前が掠れた筆跡で並んでいる。悠が指先でその境界を撫でると、いつもより少しだけ温かい気配が伝わって、耳の裏で彼女の笑い声がふっと蘇った。痕跡、というのがこんな風に来るのだと、彼はまだ学びの途中であっても慣れていた。

見えるのは「ものの痕跡」だけだ。話した言葉や確定した未来ではなく、二人が共同で作ったものに残る、擦れた筆の圧力や汗で滲んだ指紋のような、時間の押印だった。扇に残る痕跡は、結が最近、少しだけ迷っていることを告げていた。線の勢いが夜ごとに弱くなる。笑いの残響が、以前よりも短く続いたあと急に切れている。小さな滲みは、別れの始まりを示す薄い影のようだった。

「店のおすすめは何ですか?」客が背後で訊く。中年の男性で、屋台街を巡って評価を付けるという噂を鵜呑みにしているような顔だ。悠は咄嗟に結の屋台へ目線を移す。結は扇の隅に白い丸を描き足し、筆を置いた。迷いの湿り気が、また僅かに揺れた。

「その……」悠の胸の中で、勝手に結論が組み立てられかけた。彼女は来月、都会の調理学校に行く。あるいは家族の事情で屋台を畳む。どちらでも、屋台街から消える可能性――その結論は、扇の味の濃淡からかなりの確度で導かれそうに思えた。

思いかけて、色が抜け落ちるような感覚が走った。提灯の橙が淡くなり、結の赤い鉢巻きの色が鈍くなる。悠の視界の隅から、夏の濃密な音が少しずつモノクロに溶けていく。扇の紙面の滲みが、向こう側へ流れ出すように薄まっていったのだ。

「決めつけるな」――自分の中の、まだ新しいルールが警報を鳴らす。痕跡は不完全だからこそ価値がある。確信を手に入れようとした瞬間、その不完全さが消えてしまう。悠は慌てて扇を膝の上に押し付け、眉を寄せた。判断が芽生えるその刹那、痕跡は逃げる。

客が喉を鳴らす。「だから、どっちがおすすめなんです?」

悠は棚の上の串を一本取り、焼き台に戻しながら答えを濁した。「今日はうちの新作がいいよ。炙り醤油が効いてて――」つい、身内びいきの声になった。だがその瞬間、隣の屋台で結が笑った。誰かが彼女の扇を見て「かわいい」と言ったらしい。彼女の笑い声には、どこか儚さが残っていた。悠は自分の言葉で誰かの笑いを買ってしまったことに軽い罪悪感を覚えた。

終わらない選択が、屋台街を覆う。最近は評判や点数で人が動くことが多くなり、客の反応がそのまま人の将来を左右する。悠はそれが嫌だった。だから「最後の夏を記録する」と決めた。記録は操作ではない。ただ残すこと。だが目の前の現実はいつも誘惑に満ちている。知ったことを利用して即効性のある結果を出せば、目の前の誰かを守れるかもしれない。だけど、それは彼が求めている「記録」なのか。彼はわからなかった。

すると、向かいの屋台から声が飛んだ。「おーい、結! そこの扇、ちょうだいよ!」背の高い男、塩谷が大きな手を伸ばす。祭り用の撮影コーナーを作ろうと言い出したらしい。塩谷は商売熱心で、評価の搬入を好む。一枚の扇が撮影に使われれば、客の注目は結の屋台に集まるかもしれない。悠は即座に二つの筋道を想像した――扇の痕跡を露出させて注目を集めることで記録が増える。だが露出は操作に近い。撮影されることで、結の迷いが外圧になりはしないか。

結が扇を差し出すそぶりを見せた。彼女の手は一瞬止まり、目を伏せる。扇の紙の端に、小さく押された指紋――それが彼女の躊躇を語っていた。悠は扇を抑えるように握った。自分の胸の中の欲がぐっと顔を上げる。もし塩谷の撮影で彼女が褒められれば、屋台街の評価が動く。評価は時に人の選択肢を閉じてしまう。そうなるなら彼女の「迷い」は、もう純粋な感情ではなくなる。

「いいよ、塩谷さん。ただし……」結が低く言った。「ちゃんと、二人で撮ってくれる?」

塩谷は眉を上げ、面白がったように笑った。「へえ、二人でか。演出が効いてるな。撮った写真、うちの宣伝にも使わせてもらうぞ」

結の顔が少し強張った。悠の手の中の扇の痕跡に、新しい小さな線が浮かんだ。共同性の証だ。二人で作るという行為は、この力を開く鍵でもある。だが同時に、共同制作を急ぐと壊れる。悠はその矛盾を知っていた。彼は咄嗟に提案した。「一緒に作ろう。今夜ここで、二つの屋台の特製を組み合わせた一皿を出す。客に一枚ずつ扇を配って、写真はその時に撮れば……」

「それって、急いで共同制作するってことじゃない?」結が眉をひそめる。彼女の声は小さいが確かだ。悠は首を振る。だが塩谷は既に要領を得て準備を始めていた。隣の屋台の板を押し出し、酢の瓶やたれ壺がゴトゴトと音を立てる。客たちが興味深そうに集まり始める。

三人で無理やり共同の皿を作り上げる。油がぱちぱちとはね、ソースが一瞬はねて結の袖に小さな斑点を作る。悠は急いでその袖を叩き、結は手首を引きながら微かに笑った。出来上がった皿は、外見は悪くなかった。だが悠の手の中の扇の紙面で、色がひとつ、ふたつと剥がれて消えた。共同制作を急いだ代償だ。痕跡は薄れていき、結の迷いはまた見えにくくなった。悠の胸の中に冷たさが広がる。記録することを焦った報いだ。

その時、通りの角から声が響いた。低く、役所の名刺を差し出すような声。誰かが近付いてくる。屋台街の入口で、見慣れないスーツ姿の男が立ち止まり、周囲を見回していた。彼の手元には、小さな封筒があった。封筒には「再開発計画に関する説明会」と書かれた紙が見え隠れする。

塩谷が舌打ちした。「またか。役所のやつらだ。あいつら来るだけで評判が左右されるんだよ」

結は瞬間、顔色を変えて扇をそっと悠に押し付けた。「……預かってて」

悠は扇をその場で抱え込む。封筒を手にした男の目が彼らに留まる。蒸した空気の中で、提灯の光が少しだけ強くなる。役所の封筒は、この夜の空気を変える。評価でも、制度でも、噂でもない「決定」がやってくる予感だった。

悠の胸の中で、ふたつのシナリオがまたせめぎ合う。扇を守って記録を続けるのか。それとも、この場の勢いに乗って写真も何もかも晒し、他人の手による評価を引き寄せるのか。どちらを選んでも、余波は誰かの選択肢を変えてしまうだろう。

結が小さく息を吐いて、言った。「悠くん、どうする?」

彼女の声は夜の中で震えている。悠は扇の感触を確かめ、色がまだ残る部分を指先で探した。そこに残っているのは、彼女と自分が作った時間の極々些細な温度だけだ。決めるのは自分だ。しかし、それが正しいかどうかは、この先で他人がどう動くかにかかっている。

扇をぎゅっと握りしめたまま、悠は一歩、前に出る。夜風が扇の隅を撫で、そこに残る一ヵ所だけの鮮やかな赤