温室で写真嫌いのふたりは名前のない関係を選ぶ

温室で写真嫌いのふたりは名前のない関係を選ぶ 第9話「第8章」

夕陽は温室のガラスを赤く染め、葉の縁から粒のように光が落ちていた。水槽の中で小さな気泡がぽつり、ぽつりと弾ける。葉山葵は、ガラスのベンチに肘をつき、指先で苔の一片を撫でていた。苔は暖かく湿って、わずかに土の匂いを吐き出す。写真が嫌いだという彼女たちの不在を埋める光景のように、温室はいつものように息をしていた。

夕陽は温室のガラスを赤く染め、葉の縁から粒のように光が落ちていた。水槽の中で小さな気泡がぽつり、ぽつりと弾ける。葉山葵は、ガラスのベンチに肘をつき、指先で苔の一片を撫でていた。苔は暖かく湿って、わずかに土の匂いを吐き出す。写真が嫌いだという彼女たちの不在を埋める光景のように、温室はいつものように息をしていた。

「葵、来てくれればいいのに。せめて手伝って」
背後から結城灯の声がした。灯は大きめの木箱を抱え、唇を噛んでいる。木箱の端には何かが貼られていて、判読できない古い文字が揺れていた。箱の中身は共同で作られた物——というだけで、群れをつくる道具や書類ではない。葵は顔を上げることなく、軽く首を振った。手は苔の上で止まっている。

「あなたたちだけでやって。私にはできない」と葵が言った。声は低く、湿った空気に吸われるようだった。灯は肩を落としたが、木箱を床に下ろすとそっと蓋を開けた。中には小さなガラス容器、乾燥した紙片、そしてほこりをかぶった古い鍵が入っていた。ほのかな土と、金属の冷たい匂いが混じる。

そのとき、温室の裏手から足音が近づいた。美園ユウナと信田進だ。ユウナはリュックの底から、手のひらに乗る程度の透明な容器を取り出した。中には湿った苔と、根が絡まる小石。ユウナはそれを葵に向けて差し出した。

「これを——一緒に作ってみない? 灯と私で試したら、委員会の助手さんの『本当の気持ち』が少し見えたかもしれないの。だけど彼女、怖がって手を離しちゃった。信田が──」
ユウナは言葉を切り、信田が咳をした。信田はやせた肩を丸め、唇が硬かった。

「彼女の名前は佐倉梨音。外部の評価委員会の助手。温室の扱いについて内部から重要な情報を持ってるらしい。だけど口は堅い。共同で作らないと痕跡は残らないっていうから、僕たちが彼女と共同制作を申し出たんだ。──でも彼女、写真を撮られるのを恐れてね」

灯が木箱の鍵を見つめながら、苔にできた指紋のような濃淡を目で追った。葵は首を振る。彼女の拒む理由は灯やユウナ、信田の説明で変わらない。共同で作られた物にしか、真実の痕跡は残らない。だがそれは万能ではない。決めつけると見えなくなり、急ぐと壊れる——葵はその二つの代償を、まだ肌で感じていた。

「彼女は、"恐れ"を残したみたいだった」ユウナが囁くように言った。「でもそれが恐れなのか、悲しみなのか、あるいは諦めなのか──痕跡は曖昧で。私たちが『恐れ』だと決めつけてしまったら、もう他の可能性を見落とす。だから葵に来てほしかった。あなたはいつも、痕跡を『問い』に戻してくれるから」

葵はその言葉を無言で受け取り、苔に沿わせた指を軽く震わせた。問いを戻すこと。それが彼女に残された唯一の防御でもあった。自分たちの力が持つ危うさを彼女は知っている。誰かの心を"写真"のように簡単に定義してしまえば、その人の選択の余地は削られてしまう。名前を付けることが関係を消費するなら、葵はその名付けから逃れたいと願っていた。

「彼女は地下のファイルについて何か言っていた」灯が続けた。声に気負いが混じる。「古い記録。温室が評価対象になった理由の元になった実験の記録。私たちが見つけられれば、制度の脆さを示す証拠になるかもしれないって」

ユウナは容器を二人の間にそっと置いた。苔の上に、小さな窪みができている。そこには、曖昧な影が残っていた——指の跡のようにも、別の何かの模様にも見えた。

「一緒に作るのは二人で——」葵が言葉を切る。できるだけ静かに、しかしはっきりと。「誰かを巻き込むなら、その誰かの選択を奪うことになる。共同制作は、各々が手を入れて初めて成立する。急いで『証拠』を掴もうとしても、壊れるだけよ」

だが灯の目は決意に満ちていた。彼女の掌は鍵に触れ、そこに刻まれた細かな凹凸が夕陽で金色に光る。灯は葵の拒絶を理解していたが、手を止めることを選ばないらしかった。

「放っておけない。梨音さんが拘束されたら、そこで終わりになる可能性がある。私たちが何かを掴んでいれば、彼女を救う交渉材料になる」

ユウナは溜息をついて容器の苔に手を伸ばした。「私がやる。葵は外にいて。信田、灯と一緒に僕が彼女を説得する。共同で作るのは三人なんてダメだってことは分かってる。だけど、彼女と'二人'で少しだけ──」ユウナの声がぶつかった。彼女は決断を先延ばしにできないタイプの人間だ。仲間がいるから動くのではなく、仲間を待たずに動く。

「葵も来るべきだよ」と信田が言った。だが目が合った葵は首を振る。言葉にならない拒絶は、灯の顔に痛みを走らせた。葵は立ち上がり、ベンチからゆっくり離れた。背骨に冷たい空気が走る。

数分後、ユウナと灯、信田は温室の奥へと向かった。彼らの影が葉に長く伸びる。葵はベンチに一人残り、薄いカーテンのように垂れたシダの葉に顔を押し当てた。葉の裏に隠れた小さな湿り気が、彼女の頬に冷たく沿った。

内部の作業は、予想よりも早く進んだ。ユウナと信田は佐倉梨音のそばに立ち、灯が木箱を開いて鍵を差し出した。三人での共同作業は許されない。だが灯は静かに梨音の手を取る。二人で土を混ぜ、苔を均す。ユウナは少し離れて、その間合いを見守った。共同制作は、確かに生まれていた。だが──気持ちの痕跡は、人の言葉や表情よりも繊細だった。

苔の窪みに浮かび上がったのは、思いがけない形だった。長く引き伸ばされた影が、誰かの指の跡を連ねる。だがそれは「恐れ」と簡単に名付けられるものではなく、複数の感情が縒り合わさった細い糸のように見えた。梨音の唇は震え、彼女は低く呟いた。

「私は……ただ、失いたくないだけなんです」

その言葉にユウナは一瞬身体を持っていかれた。信田は息を止める。灯は指を止めたまま、梨音の言葉を繰り返した。葵がいつも言っていた「問いに戻す」は、まさにこの瞬間のためにあった。だが彼らは怖れていた。恐れがどこまで制度に繋がっているのか、どれだけの証拠が必要なのか。灯は無言で木箱から小さなノートを取り出し、苔の隣に置いた。ノートを押さえた手が震え、その震えがノートを揺らす。

信田が手早くスマートフォンを取り出した。「写真を撮っておこう。記録として」彼は言った。手元の画面は淡い光を放ち、夜へと傾いた温室を切り取ろうとする。ユウナはためらった。梨音は目を見開き、その目に怒りと恐れが混じった。

「やめてください!」梨音が叫んだ。「誰がそれを見るのですか。私の顔が、私の動揺が、どれだけ多くの文書と会議の材料になるか。写真は——写真は私たちを評価の対象に戻す!」

信田は短く笑ったように見せかけてから、でもとっさにシャッターを切った。フラッシュがしゅっ、と温室の空気を引き裂く。酸っぱい匂い。金属のような、消毒薬のような匂いが鼻に入ってきた。

フラッシュの瞬間、苔が瞬間的に白く浮かび上がり、そして木箱の蓋がわずかに動いた。ガラス容器の縁に入った微細な亀裂に、光が一瞬にして反射する。次の瞬間、ぴきりと鋭い音が温室に響き、透明な容器は縦に裂けた。苔と土が床に跳ね、冷たい泥が信田の靴に跳ね返る。ガラスの破片が散り、短い悲鳴が三つ四つ上がった。

ユウナの手に切り